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新しい教科書誕生
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「歴史」著者の想い
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「公民」著者の想い
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QandA
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執筆 佐伯 啓思(京都大学大学院教授)
佐藤 光(大阪市立大学教授)
八木 秀次(高崎経済大学助教授)
宮本 光晴(専修大学教授)
杉村 芳美(甲南大学教授)
田内 寛人(東京都、中学校教諭)
大津寄 章三(愛媛県、中学校教諭)
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代表執筆者 西部 邁(秀明大学教授)

まず始めに公民の教科書を書くにあたって、コンセプトや、特に気を付けた点などありましたら、お聞かせ下さい。

西部 教科書の章別構成に気を付けました。歴史の教科書は過去から現代の順に書けば良いのですが、公民の教科書は現代について書かなければなりません。それを、どういった枠組みで捉えるか、ということに気を遣いました。他の教科書では、それがはっきりしていない。もしくは、間違った方向ではっきりしているんです。どういう事かと言うと、おおよそ政治から始まって、基本的人権、民主主義、平和主義と、これらの命題が先験的(アプリオリ)に打ち出されているんです。そこには、ハイエクの言った設計主義が伺えます。設計主義とは、知識人の考えた理念に基づいて社会が設計されるべき、という考えですが、僕は個人的に現代の価値は知識人の頭の中でうまれるものではないと思います。日本を例にとって言うならば、アメリカが日本人に価値を教え込むほど偉いのか、という疑問があります。旧ソ連についても同様ですね。この様な設計主義が結局たどり着いたところは、学級崩壊やバブルによる自信喪失等ですよ。ですから僕は価値というものは歴史からやって来ると考えています。としますと、章別構成における序章として、前近代について触れざるを得ないだろうと思います。

――
それは世界史的に見て近代ということですか。

西部 そうですね。近代という意味のモダンという言葉は、模型を意味するモデルという言葉と同義語なんです。つまり、近代というものは、人間の思考や行動を模型化する、そして模型に従って生きる事を促すという点において、それ自体が設計主義的なわけですよ。ですから、前近代を探ることにより、模型化されていない人間を捉え直し、そこを出発点として民主主義などを学ぶべきなんですよ。民主主義について言えば、前近代において、既に多くの批判や検討がなされています。例えば、フランス革命を礼賛する声がヨーロッパにおいてありましたが、同時に同じくヨーロッパにおいて、それを非難する声もありました。この様に19世紀を見ただけでも、近代に対する疑念や反発が渦巻いているんです。日本を見たって、日本はヨーロッパ以上に長く落ち着いた歴史を持っているわけですから、これは僕の希望的観測になるんですが、日本人の中にある歴史との接続を望む潜在的な意識は、まだ消え失せてはいないと思います。その辺りを子供に判る様に書くということが、教科書を書く前提になっているんです。人間のふくらみを教えるような教科書にしたいという願いですね。

権利の基礎としての「ルール」・価値の体系としての「文化」

――
確かに今までの公民の教科書では、ロック、ルソー、モンテスキューなどを何の批判もなく教え込まれるだけですよね。常に外から人権や民主主義がやってきたという感じで。でも、日本にもそういった日本式の理念があったはずなんです。

西部 その問題とも深く関わってくるんですが、教科書のみならず、戦後知識人も、権利とは何か、という問いに対して明確な答えを出せないでいるんです。全く説明していないんですね。僕は、子供にも判り、大人も納得できる権利論というのは、こうだと思うんですよ。まず最初にルールありき。ここでルールというのは、歴史から生まれた徳律と法律ですけども、そのルールによって為すことが許されている自由の可能性、それが権利であると、こう思うんです。これなら誰でもすぐ判るでしょう。そして、ルールと言うのは禁止の体系、義務の体系ですから、権利と義務は二つで一つのペアなんだということが判るわけです。ところが、「社会契約論」では初めに権利ありきとしてしまうんです。そして、権利に基づいてルールは設計さるべし、としてしまうんです。結局、人間の権利が一体何であるかを説明出来ず終りなんですね。あるとすれば子供の権利といった様な情緒的なものしかない。バークが「人間一般の権利というものが何を意味するかは理解不能である。しかし、国民の権利ならば大いに認めようではないか」という主旨のことを言っているんです。その意味は、国民であれば歴史があり、歴史があれば秩序があり、秩序があればルールがあり、ルールがあればルールによって認められる権利がある、という事に他ならない。だから、人間一般の権利というものは何ら具体的にはなり得ない。つまり戦後日本は悪しき純粋近代主義に染められてきたんです。それにですね、人間精神のベースには宗教、生活規範、道徳を含めた価値観というものがあると思います。人間というのは価値に対して究極の関心を持つ生物なんです。それは何故かと言いますと、おそらく人間だけが自己の死というもの、有限の生というものを自意識の中に持ち込める動物だからです。そのために、人間は自分が何故、何の為に生きているのかを見出そうとする。可能性から言えば、僕だって誰だって、極悪人にもなれるし、慈善家にもなれるわけでしょう。その中でどれを選ぶかということを決めるんです。人間だけが生の中で意識的選択をする。そうすると、何を選んで何を選ばないかという点において、否応もなく価値の問題が浮上してくるわけです。従って、人間なり時代なりの根源には価値というものがあるんだと、そう言っていいんじゃないでしょうか。

――

それが新しい教科書の根底にあるわけですね。

西部 それがなければ駄目だと思います。ですから、第1章で論じられるべきは文化の問題だと考えています。ここで言う文化とは、歴史に基づく価値の体系としての文化という意味です。それに、人間の自意識というものは、言語から生まれた。まさに言語は、どの単語を選ぶかなどというように常にチョイスの連続なわけです。つまり文化とは、言語的意味の基準でもあるんです。ですから第一章に文化を置くということは、言語学的考察から言っても、歴史的考察から言っても、当然首肯され得る章別構成だと思います。

パシフィスト(平和主義者)という軽蔑語

――
確かに今までの教科書がその様な章別構成をして来なかったという事自体がおかしい気がします。

西部 それで、第2章には政治が来るんです。何故なら、人間は価値を根底にして生きなければならない。その時、時間の流れの中で、人間の自意識は時間意識になるんですね。人間は未来に向かって生きるわけです。その時間意識によって、どういう目標を定め、どういう手段を準備するかという政治の問題が浮上してくるんです。政治とは言語における意味の表現に他ならないと。ここで我々が避けて通れなかったのが戦後憲法でして、これに対して批判的考察を加えました。第1条の天皇条項は、確かに日本独特のものです。しかし、それ以外の条項は全てブラジルの憲法でもいいし、ケニアの憲法としても通用する。日本国憲法と銘打ってはいますが、結局日本なんて存在しない。憲法の中に日本独特のものがないんです。

――
無国籍憲法ということですね。

西部 天皇条項を抜かせばそうですね。しかも、唯一日本特有の天皇条項も、他の条項とはつながらないで一つだけ浮いています。結局、今の憲法や戦後思想が言っている所謂「国民主権」というものは、実際は国籍のある「国民」主権ではなくて、「人民」主権なんですよ。さらに、平和主義に対しても批判的考察を加えました。今で言う平和とは、戦争のない状態のことですよね、生活レベルに換言するならば、争いや混乱、苦悩のない状態。この状態を無心に求めるという平和主義の根底には、苦難のない状態に人間をおけば人間は素晴らしく完璧になり得るというとんでもないヒューマニズムがあるわけです。僕としては、プレモダンや文化の検討の中で、人間は無条件でパーフェクトとなり得るとは限らないと思っているんです。ですから、平和主義なんてものは、人間観として社会観として出て来ようがないわけです。平和の中で人間が素晴らしくなるなどという保証なんて何もない。反対に平和の中で人間は怠惰になり、ねたみに身をこがすことになるかも知れない。だから、安直なヒューマニズムというものは出て来ません。でも、そうかといって戦争を良いと言っているわけではないんです。ただ、戦争のない状態をおよそ素晴らしいものだと仮定しても、今の日本ではそういう状態をもたらすために何をすればいいのか、ということが全く考えられていない。国防にしても、その他の危機管理にしても絶対に必要なはずなんですが、戦後日本はそれを考えないで来ましたね。欧米でも、パシフィスト(平和主義者)というのは軽蔑語ですから。つまり、戦わなければならない時に逃げる人という意味です。それなのに日本ではガンジーやクェーカー教徒の様に特別な信条や信仰を持っているわけわけではないのに、軽蔑語に対して最高の価値を付与してしまった。これは敗戦のトラウマとしか思えません。本当は大きな戦争を回避するためには、小さな戦争も辞さないといった姿勢も必要なんですよ。ですから、2章においては、人権主義、民主主義、平和主義に対しての批判を書いたんです。ただ、急いでつけ加えなければならないのは、これらの主義主張にもある程度の意味はあるということです。現代は、やはり外国との交流もしなければなりませんから、つまり、歴史の違う人々と交際しなければならないし、また交際したいと思いますよね。その交流の中で、異なったもの同士の同一性を求めなければならない。そこで人間の普遍的な権利が理念として浮かび上がってきます。ただ、これはあくまで無限に探究すべき課題であって、具体的に「これが人権です」と指定されるものでは決してないんです。僕はあながち人権を否定するわけではないですけど、特定時代の特定の者によって特定化されうるという軽率な人権観を批判するわけです。民主主義についても、デモクラシーとは民衆の支配ということですから、多数の民衆参加と多数の判断で決定するということしか意味しない。だから、民主主義それ自体は良いものでも悪いものでもない。ただ、民衆がいかに健全であるかということが問題なんです。そして、その健全さを保証する唯一のものが歴史感覚、伝統精神なんだと、僕はそう考えるんです。

「市場」の限界と「慣習」の役割

――
なるほど。それで第2章には政治がくるわけですね。第3章には何がくるのでしょうか。

西部 第3章には経済を持ってきました。というのは、国家、国民にとって目標と目標達成の手段がおよそ政治として定まったら、それを具体的に適用してみせる、というのが経済の本質的役割なんです。物質的、技術的、情報的資源を集めて目標を実現するということです。となると、市場機構というのは人類の発生とともに古い。だからこそ市場は古く重要な発明品なんです。しかし、市場というものは常に失敗するわけですね。それは当たり前であって、経済というのは技術的な世界ですから、未来が技術的に秩序化し得ない不確実なものである限り、十分には対応しきれない、ということになるでしょう。それに、文化において機能するのは価値であり、政治において機能するのは権力であるとするならば、経済において機能するのは言語から派生した貨幣というものなんです。ですから言語が共有物であり、公共性を持っている限り、個人と個人の交換の場である市場は、この公共性のある言語、それから派生した貨幣というものを上手く処理し得ない等の問題もあるんです。

第4章にくるのは、他でもない社会の問題です。社会において機能するのは、言語の派生物としての習慣なんですね。つまり、価値、権力、貨幣、そして最後に習慣です。習慣の役割というものは、家族、学校、コミュニティ等々の様々な集団、共同体、その中で文化におけるあり得べき混乱、政治におけるあり得べき闘争、経済におけるあり得べき不均衡、そういうものを調整する役割なんです。それが社会である。言い換えるなら社会的交際の場なわけですね。現代は、それがかなり破壊されています。学校が破壊され、コミュニティが破壊され、都市が混乱させられ、田園が荒廃させられ、と。近代がいかに習慣に基づく社会を破壊し、政治的イデオロギーと、経済的効率によって編成させられてしまったか、こういうことも子供たちに伝えようと努力しました。

そして終章において、「ポストモダン」つまり近代・現代以降の未来に一体何が起こり得るかを展望するという形にしました。序章において過去を懐古し、終章において未来を展望するという形で、全6章仕立てで教科書を考えたということになります。言語的に解釈しなおすと、言語の意味の尺度にまつわる文化、言語的意味の表現にまつわる政治、言語的意味の伝達にまつわる経済、言語的意味の歴史的蓄積にまつわる社会と言う形で言語的裏付けを持たせました。

「文明の袋小路」も伝える

――
教科書をお書きになった思想的背景をお伺いしましたが、それを子供たちに判り易く伝えるために語り口など工夫されたことはありましたか。

西部 僕は、あまり子供たちを馬鹿にして、判り易ければいいだろうと、迎合的姿勢で教科書を書いてはいけないと思います。子供も人間である以上は言語的動物であって、言語を探るならば、その根底には論理(ロジック)を可能性としてはらんでいるんですよ。そうならば、文化の価値があって、それが表現されて政治の目標が定まって、それが実際に適応されて経済が動き始め、その間に起こった混乱を社会が調整するといった論理を子供に教えておいた方が、すっきりするんです。僕は、その程度において子供を信頼しています。それなのに、今までは「皆さんは喧嘩がない方がいいでしょう」とか、「皆さんは欲しいものはどうしても欲しくなるでしょう」とかいった児童の情緒に訴える教科書が余りにも多すぎたんです。

――
子供に媚びているんですね。それが子供の興味をひくと思い込んで書かれています。

西部 僕はむしろ逆だと思います。少なくとも一面においては自分を見る、社会を見る論理構造を教科書において書いておかなければならないんだけれども、論理むき出しで子供に教えてもしょうがないので、やはり現実への言及が必要になってくる。そういう意味では、今までの教科書と対象に関しては大きな違いはないんですよ。例えば、憲法を例題にとるとか、市場経済を対象とするとか、家族や都市、学校を対象とするという点では変わらないわけです。ただ、それに対する解釈の仕方が、近代主義、とりわけ戦後主義に偏った見方ではなく、現実を総合的に理解するために裏を探るという点においては、大いに異なりますけど。

――
その方が子供たちも理解し易い部分があると思います。ところで、コラムや課題ではどの様なものを取り上げられましたか。

西部 例えば、核兵器廃絶について、「核兵器は簡単に造ることが出来るという現実の下で核兵器が廃絶されたとしよう。そこで何処かの悪党が核兵器を造ったら世界中がその悪党にひれ伏さなければならない。核兵器廃絶が出来たとしても、核兵器の製造法を忘れることは出来ない。核廃絶は本当に絶対的な善だろうか」と書いて、子供たちの考えを引き出すといったものをいくつかちりばめました。もっと平凡な例で言えば、民主主義について「多数の人間がもし愚かだったらどうするのか」という様な事ですね。子供たちは、日々クラスや遊び場において、多数の愚かな人々を実際に体験して、実感しているんです。ですから、子供たちには理解し易いんじゃないでしょうか。そういうものをあちこちにちりばめています。

それと、これが一番大きな問題点なんですが、近代文明の到達点である今、文明が何とも言えない腐臭を発し始めていることに子供たちも気づいているはずなんです。例えば女性の裸の看板が街に林立していたり、携帯電話が何処でも騒がしく鳴り響いていたりしているわけです。もう、子供たちが安易に希望を持てる時代ではないんですよ。そんな状況で大人が希望だけを語るというのは度し難い偽善だと思います。子供に絶望ばかり教えるわけにはいきませんが、文明の袋小路の様なものをそれなりに語ってやらないといけないんではないでしょうか。そういうところが一番苦労しました。

――
本日はお忙しいところどうもありがとうございました。
『史』平成12年5月号(通巻21号)より