「市場」の限界と「慣習」の役割
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なるほど。それで第2章には政治がくるわけですね。第3章には何がくるのでしょうか。
西部 第3章には経済を持ってきました。というのは、国家、国民にとって目標と目標達成の手段がおよそ政治として定まったら、それを具体的に適用してみせる、というのが経済の本質的役割なんです。物質的、技術的、情報的資源を集めて目標を実現するということです。となると、市場機構というのは人類の発生とともに古い。だからこそ市場は古く重要な発明品なんです。しかし、市場というものは常に失敗するわけですね。それは当たり前であって、経済というのは技術的な世界ですから、未来が技術的に秩序化し得ない不確実なものである限り、十分には対応しきれない、ということになるでしょう。それに、文化において機能するのは価値であり、政治において機能するのは権力であるとするならば、経済において機能するのは言語から派生した貨幣というものなんです。ですから言語が共有物であり、公共性を持っている限り、個人と個人の交換の場である市場は、この公共性のある言語、それから派生した貨幣というものを上手く処理し得ない等の問題もあるんです。
第4章にくるのは、他でもない社会の問題です。社会において機能するのは、言語の派生物としての習慣なんですね。つまり、価値、権力、貨幣、そして最後に習慣です。習慣の役割というものは、家族、学校、コミュニティ等々の様々な集団、共同体、その中で文化におけるあり得べき混乱、政治におけるあり得べき闘争、経済におけるあり得べき不均衡、そういうものを調整する役割なんです。それが社会である。言い換えるなら社会的交際の場なわけですね。現代は、それがかなり破壊されています。学校が破壊され、コミュニティが破壊され、都市が混乱させられ、田園が荒廃させられ、と。近代がいかに習慣に基づく社会を破壊し、政治的イデオロギーと、経済的効率によって編成させられてしまったか、こういうことも子供たちに伝えようと努力しました。
そして終章において、「ポストモダン」つまり近代・現代以降の未来に一体何が起こり得るかを展望するという形にしました。序章において過去を懐古し、終章において未来を展望するという形で、全6章仕立てで教科書を考えたということになります。言語的に解釈しなおすと、言語の意味の尺度にまつわる文化、言語的意味の表現にまつわる政治、言語的意味の伝達にまつわる経済、言語的意味の歴史的蓄積にまつわる社会と言う形で言語的裏付けを持たせました。
「文明の袋小路」も伝える
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教科書をお書きになった思想的背景をお伺いしましたが、それを子供たちに判り易く伝えるために語り口など工夫されたことはありましたか。
西部 僕は、あまり子供たちを馬鹿にして、判り易ければいいだろうと、迎合的姿勢で教科書を書いてはいけないと思います。子供も人間である以上は言語的動物であって、言語を探るならば、その根底には論理(ロジック)を可能性としてはらんでいるんですよ。そうならば、文化の価値があって、それが表現されて政治の目標が定まって、それが実際に適応されて経済が動き始め、その間に起こった混乱を社会が調整するといった論理を子供に教えておいた方が、すっきりするんです。僕は、その程度において子供を信頼しています。それなのに、今までは「皆さんは喧嘩がない方がいいでしょう」とか、「皆さんは欲しいものはどうしても欲しくなるでしょう」とかいった児童の情緒に訴える教科書が余りにも多すぎたんです。
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子供に媚びているんですね。それが子供の興味をひくと思い込んで書かれています。
西部 僕はむしろ逆だと思います。少なくとも一面においては自分を見る、社会を見る論理構造を教科書において書いておかなければならないんだけれども、論理むき出しで子供に教えてもしょうがないので、やはり現実への言及が必要になってくる。そういう意味では、今までの教科書と対象に関しては大きな違いはないんですよ。例えば、憲法を例題にとるとか、市場経済を対象とするとか、家族や都市、学校を対象とするという点では変わらないわけです。ただ、それに対する解釈の仕方が、近代主義、とりわけ戦後主義に偏った見方ではなく、現実を総合的に理解するために裏を探るという点においては、大いに異なりますけど。
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その方が子供たちも理解し易い部分があると思います。ところで、コラムや課題ではどの様なものを取り上げられましたか。
西部 例えば、核兵器廃絶について、「核兵器は簡単に造ることが出来るという現実の下で核兵器が廃絶されたとしよう。そこで何処かの悪党が核兵器を造ったら世界中がその悪党にひれ伏さなければならない。核兵器廃絶が出来たとしても、核兵器の製造法を忘れることは出来ない。核廃絶は本当に絶対的な善だろうか」と書いて、子供たちの考えを引き出すといったものをいくつかちりばめました。もっと平凡な例で言えば、民主主義について「多数の人間がもし愚かだったらどうするのか」という様な事ですね。子供たちは、日々クラスや遊び場において、多数の愚かな人々を実際に体験して、実感しているんです。ですから、子供たちには理解し易いんじゃないでしょうか。そういうものをあちこちにちりばめています。
それと、これが一番大きな問題点なんですが、近代文明の到達点である今、文明が何とも言えない腐臭を発し始めていることに子供たちも気づいているはずなんです。例えば女性の裸の看板が街に林立していたり、携帯電話が何処でも騒がしく鳴り響いていたりしているわけです。もう、子供たちが安易に希望を持てる時代ではないんですよ。そんな状況で大人が希望だけを語るというのは度し難い偽善だと思います。子供に絶望ばかり教えるわけにはいきませんが、文明の袋小路の様なものをそれなりに語ってやらないといけないんではないでしょうか。そういうところが一番苦労しました。
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本日はお忙しいところどうもありがとうございました。
『史』平成12年5月号(通巻21号)より