中国の史書に書かれた日本
日本が 弥生<やよい>時代だったころ,すでに中国では秦(しん)と漢(かん)という二つの古代帝国が栄え,どちらもすぐれた官僚組織と軍事組織を備えた強大な国家であった。
紀元前1世紀ごろの日本について,漢の歴史書『漢書』<かんじょ>には, 「倭人」<わじん>(中国人が日本人を指してよんだ語)が100余りの小国をつくっていたと書かれている。
『後漢書』<ごかんじょ>の 東夷伝<とういでん>には,1世紀中ごろ,「倭の奴国」<わのなこく>が漢に使いを送ってきたので,皇帝が印を授けたと記されている。「倭」も「奴」も,決して好意的な意味の文字ではない。中国皇帝の権威を示すために,中国の歴史家はつねに周りの国々を見くだす言い方をした。東夷も,「東の野蛮な人々」の意味である。
このとき授けられたと思われる金印が,江戸時代に 志賀島<しかのしま>(福岡県)で発見されたので,中国皇帝と日本列島の使者との交渉はあったと考えられている。
邪馬台国と卑弥呼
3世紀に入ると中国では漢がほろび,魏(ぎ),呉(ご),蜀(しょく)という三国が分かれて争う時代になった。そのうち魏と親交を結んだ国が日本列島の中にあり,魏からも使者がきた。
3世紀の末に中国で書かれた 『三国志』<さんごくし>の中に,やはり「東夷伝」があり,日本に関係する部分が 魏志倭人伝<ぎしわじんでん)とよばれている。漢字で2000字ほどのこの説明によると,倭の国には3世紀ごろに
邪馬台国<やまたいこく>という強国があって,30ほどの小国を従え,女王の 卑弥呼<ひみこ>がこれを治めていた。卑弥呼は神につかえ,まじないによって政治を行う不思議な力をもっていた,などと書かれている。
しかし,魏志倭人伝を書いた歴史家は,日本列島にきていない。それより約40年前に日本を訪れた使者が聞いたことを,歴史家が記していると想像されているにすぎない。また,その使者にしても,列島の玄関口にあたる福岡県のある地点にとどまり,邪馬台国を訪れてもいないし,日本列島を旅してもいない。記事は必ずしも正確とはいえず,邪馬台国が日本のどこにあったのかはっきりしていない。
大和<やまと>(奈良県)説,九州説など,いまだに論争が続いている。 |