第1章 原始と古代の日本>2.古代国家の形成>コラム
日本武尊と弟橘媛/p042

[反乱をしずめる] 日本で大和朝廷による国内の統一が進んだ4世紀前半ごろ,景行<けいこう>天皇(第12代)の皇子<おうじ>に日本武尊という英雄がいたことを,古典は伝えている。
 景行天皇の時代に,九州に反乱があったので,第2皇子の小碓命<おうすのみこと>が,征伐のために派遣された。当時,皇子はまだ16歳の若さだったという。
 皇子はクマソの国にいたり,少女の姿になって,反乱の指導者クマソタケルに近づき,これを見事に倒した。タケルは皇子の勇敢さをたたえ,「これからは,あなたがヤマトタケルと名乗られるがよい」と言って,息絶えた。日本武尊とは,日本の勇猛な人という意味をもつ。
 日本武尊は,九州から大和へ帰ると,さらに次は東の方の乱れをしずめるために,天皇から命令を受けて出発した。
 このとき,まず伊勢神宮に参拝し,そこで天叢雲<あめのむらくも>の剣を授けられる。この剣は,神話の中で,スサノオの命<みこと>が八岐の大蛇<やまたのおろち>を退治したときに,その尾からあらわれたと伝えられるものだ(P.60「日本の神話」参照)。
 尊が相模国(神奈川県)にいたったときに,賊にあざむかれて,野原の中に入ったところ,野に火をつけられて,あやうく焼き殺されそうになった。そこで剣を出して草を薙ぎ払い,逆に火をつけて,賊をほろぼしてしまった。このことによって,この剣を草薙<くさなぎ>の剣とよぶようになったという。
 この草薙の剣と,八咫の鏡<やたのかがみ>・八坂瓊の曲玉<やさかにのまがたま>は,やがて「三種の神器<じんぎ>」とよばれ,歴代の天皇に受けつがれる皇位のしるしとなった。

[身がわりになった弟橘媛<おとたちばなひめ>] 尊はさらに走水海<はしりみずのうみ>(浦賀水道)を渡ろうとしたが,波が荒れて船を進められなくなった。このとき,妃の弟橘媛は,「自分が身がわりとなって海に入りましょう。あなたさまは,どうか大切な任務を果たしてください」と言って海の中に飛び込んだ。するとみるみる波はしずまり,穏やかになった。こうして尊は危難から救われた。そのときの妃の歌は,次のようなものだったと伝えられている。

さねさし 相武<さがむ>の小野に 燃ゆる火の
火中<ほなか>に立ちて 問ひし君はも
(相模国の,あの野原の燃えさかる火の中で,私の身を案じてよびかけてくださったあなたさまだったことよ)

 
こののち,尊は東方の乱れをしずめて大和へ帰る途中,碓日<うすい>の坂(群馬県碓氷峠)で弟橘媛を偲んで,「吾妻<あづま>はや(ああ,わが妻よ)」と嘆いた。これによって,関東を「あずま(東)の国」とよぶようになったという。
 やがて尊は,剣をもたないで,伊吹山<いぶきやま>(滋賀県と岐阜県の境)に登り,山の神のたたりにあって,ついに伊勢の能褒野<のぼの>(三重県鈴鹿市)で病気が重くなり,亡くなってしまった。人々は,その場所に陵<みささぎ>(墓)をつくって,尊をていねいにほうむった。すると,尊は白鳥になってそこから飛び立った。その後,白鳥が降り立った場所にも陵はつくられ,現在でも尊の陵は三つ残されている。
 以上が,日本武尊と弟橘媛の言い伝えである。

■全国には,神話に由来する地名が多く残っている。自分たちの住んでいる地域にある地名の由来を調べてみよう。