第1章 原始と古代の日本>3.律令国家の成立>10
日本という国号の誕生/p051

白村江<はくすきのえ>の敗戦

任那<みまな>  が 新羅<しらぎ>にほろぼされてから約1世紀,朝鮮半島の三国は,あいかわらずたがいに攻防をくり返していた。7世紀のなかばになると,新羅が唐(とう)と結んで 百済<くだら>を攻めた。唐が水陸13万の軍を半島に送り込むにいたって,日本の国内には危機感がみなぎった。300年におよぶ百済とのよしみはもとより,半島南部が唐に侵略される直接の脅威を無視できなかった。
 中大兄皇子は,662年,百済に大軍と援助物資を船で送った。唐・新羅の連合軍との決戦は,663年,半島南西の白村江で行われ,2日間の壮烈な戦いののち,日本軍の大敗北に終わった(白村江の戦い)。日本の軍船400隻は燃えあがり,天と海を炎でまっ赤に焼いた。こうして百済は滅亡した。
 いつの世にも,敗戦は次の時代に強い影響と反動をおよぼす。唐と新羅の本土侵入をおそれた日本は, 防人<さきもり>(海防[かいぼう]のために九州に置かれた兵)を置き, 水城<みずき>水城(九州の大宰府[だざいふ]防衛のために築かれた。上図参照)を築いて,国をあげて防衛に努めた。防衛努力は,日本における国家統合の意識をおのずと高めた。

亡命百済人

 唐と新羅は百済をほろぼしたが,まだ 高句麗<こうくり>が力を残していた。日本を攻める余裕のなかった唐と新羅は,背後をおそわれないようにするために日本に和親を求め,その上で高句麗を滅亡させた。
 新羅は676年,朝鮮半島を統一した。その後,新羅は必ずしも唐に従順ではなく,両国の間にすき間風が吹いた。
 百済からは,王族や貴族をはじめ,一般の人々までが1000人規模で日本列島に亡命して,一部は 近江<おうみ>(滋賀県),一部は東国に定住を果たした。朝廷は手厚い優遇措置を取った。当時の列島の人口は500万〜600万人と推計され,受け入れの余地は十分にあった。しかも,聖徳太子以来,中央集権国家の形成を目指していた日本は,中央の官僚制度の仕組みや運営の仕方について,亡命百済人との交流の中から学ぶ点が少なくなかった。
中大兄皇子<なかのおうえのおうじ>は唐からの攻撃をさけるため,都を近江に移し,668年に即位して 天智<てんじ>天皇となった。天皇は国内の仕組みを整えようと,中国の 律令<りつりょう>をモデルにした 近江令<おうみりょう>を編んだ。また,初めて 庚午年籍<こうごねんじゃく>とよばれる全国的な戸籍をつくった。しかし,蘇我氏がほろびたとはいえ,天智天皇の時代には,中央豪族の勢力はまだ根強く残っていた。

天武<てんむ>・ 持統<じとう>朝の政治

 天智天皇の没後,天皇の子の 大友皇子<おおとものおうじ>と天皇の弟の 大海人皇子<おおあまのおうじ>との間で,皇位継承をめぐる内乱が勃発した。これを壬申<じんしん>の乱(672年)という。大海人皇子は,中小の豪族や地方豪族を味方につけて十分な兵力を備え,大勝利をおさめた。これにより,中央の大豪族の力はおさえられ,天智天皇の時代までどうしても断ち切れなかった,中央豪族たちの政治干渉を排除することに成功した。こうして,豪族たちの個別の立場を離れて,天皇を中心に国家全体の発展をはかる方針がようやく確立することになった。
 大海人皇子は 天武<てんむ>天皇として即位し,皇室の地位を高めることで, 公地公民<こうちこうみん>を目指す改新の精神を力強く推進した。それまで 大王<おおきみ>とよばれてきた君主の称号として,天皇号が成立したのはこのころだという説が有力である( 推古<すいこ>天皇が最初という説もある)。天皇は国史の 編纂<へんさん>を志し,律令の改正と整備に着手した。
 天武天皇の没後,皇后の持統天皇が即位し,近江令を改めて 飛鳥浄御原令<あすかきよみはらりょう>が施行され,日本で初めて中国の 都城<とじょう>にならった,広大な藤原京が建設された。天武・持統朝(673〜697年)の時代は,日本の国家意識の確立期といってよく,日本という国号もこの時期に確立したと考えられる。