第4章 近代日本の進出>3.立憲国家の門出>人物コラム
陸奥宗光と小村寿太郎/p224

[国事犯から外務大臣へ] 日本が,1858(安政5)年に欧米諸国と結んだ通商条約は,外国の治外法権(領事裁判権)を認め,関税自主権をもたない不平等条約であった。日本はねばり強く外国と交渉を続け,ようやく1894(明治27)年になって,陸奥宗光(1844〜1897)外務大臣のもとで,イギリスをはじめ諸外国との間で,領事裁判権の撤廃と関税率の改正に成功した。
 陸奥は,和歌山藩士の子に生まれ,成長して坂本龍馬の海援隊に入り,維新後は優秀な官僚として活躍した。しかし,薩摩・長州出身者が有力な地位を占める新政府への反発から,西南戦争がおきると,これに加担する陰謀に加わり,国事犯(反乱罪など政治上の罪をおかした人)として逮捕されて,5年間の牢獄生活を送った。出獄後はヨーロッパに留学し,帰国して伊藤博文のすすめで外務省に入った。駐米公使として,日本にとって初めての対等条約であるメキシコとの条約の調印に成功し,のちに農商務大臣となった(陸奥は政府に入り,それを内側から変えようと考えていたのである)。
 その後,1892(明治25)年の第二回総選挙で政府は,はげしい選挙干渉を行ったので,陸奥はみずからの政治信条に基づき,農商務大臣を辞任した。しかし,陸奥は,第二次伊藤博文内閣に外務大臣として迎えられ,条約改正に取り組んだ。そのころ,議会では,条約を改正すると,それまで居留地にいた外国人に日本全国での自由な活動を認めねばならず,その結果,日本の経済が彼らによって支配されるのではないかとおそれ,改正に反対する意見も強力だった。陸奥は,外国人に完全に国を開くことが維新以来の大方針であると説得し,条約の改正に成功した。条約改正後,陸奥は日清戦争の勝利に貢献し,その外交体験を『 蹇蹇<けんけん>録』に記した。そこには日本外交の貴重な知恵と経験が示されている(蹇蹇とは困難に負けず,忠義を尽くす意味)。

[貧乏な外交官] 日本が治外法権の撤廃だけでなく,関税自主権も完全に回復したのは,1911(明治44)年2月,小村寿太郎(1855〜1911)外務大臣のもとにおいてであった。これにより,日本は国際法の上で,欧米諸国と完全に対等な国家となった。
 小村寿太郎は,日露戦争における,ロシアとの講和会議で活躍した外務大臣でもあった。小村は,宮崎県の飫肥<おび>藩士の家に生まれた。維新後,文部省から派遣されてアメリカのハーバード大学で学び,帰国して,司法省をへて外務省に入った。ところが,寿太郎は父が残した巨額の借金のため,家具もない家に住み,夏冬一着の古ぼけたフロックコートだけでとおし,昼食もお茶だけという生活を送った。薩摩・長州の藩閥のバックもない小村は出世も遅れた。しかし,小村はくじけなかった。小村は陸奥と異なり政党政治には共感しなかったが,私心をもたずに国家に献身する点では誰にも負けないと自負していたのである。
 そんな小村が頭角をあらわしたのは,清国駐在公使として,義和団事件(P.220)の処理で,列強と並ぶ日本の地位の確保に成功したからである。そのときの経験から,ロシアの満州進出の意図を読みとった小村は,その後外務大臣になると,一貫してロシアへの強硬論の立場をとった。ポーツマス講和会議では,講和の内容が民衆の期待に反することを知っていたが,講和をまとめて帰国し,国内のはげしい非難にだまって耐えたのであった。