[帰国子女梅子] 岩倉具視<ともみ>に率いられて横浜を出航した岩倉使節団には,60名ほどの留学生がいたが,その中に,当時まだ8歳の津田梅子(1864〜1929)が加わっていた。この小さな女の子の肩には,新しい日本の女性の模範になるという大きな任務がかかっていた。
津田梅子は,幕府の農学者・津田仙の次女に生まれた。幼いころより聡明で習字なども得意であった。アメリカに渡った梅子は,ワシントン郊外で,チャールズ・ランマン夫妻のもと,西洋的教養と文化の雰囲気の中で成長していった。11年後,日本に帰国した梅子は,今日の言葉でいう完全な帰国子女で,日本語も話せなかったが,使節団で一緒だった伊藤博文のつてで華族女学校で英語を教えることになる。しかし,自分の受けてきた教育と日本の女性の現実との開きの大きさに,改めて思い悩んだ。
梅子は,1889(明治22)年,再び渡米し,アメリカの名門女子大に学んだ。そこで,梅子は日本で自分の理想とする女子教育にたずさわることを決意する。3年後帰国した梅子は準備に努め,1900(明治33)年,少人数の生徒への個人指導をとおして専門教育を行う私塾を開設した。
女子への専門教育は,当時にあって画期的な試みであった。新しい試みには慎重な配慮が必要なことを忘れなかった梅子は,自分の女子教育が世間からつまらない誤解や反対をされないように,生徒たちの日常の行儀作法や言葉づかいなどにも注意し,一見保守的な雰囲気の中で,おたがいの個性を尊重しあう気風を育むことに努めた。それはかつて幼い梅子が託された任務の実現でもあった。梅子の私塾はのちに津田塾大学として発展した。
[情熱の歌人晶子] 与謝野晶子(1878〜1942)は,歌集『みだれ髪』(1901年)で一躍有名になった。そこには,例えば,「その子二十櫛<はたちくし>にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」という歌のように,みずみずしい新鮮な情感が歌い込まれていた。晶子の歌は,明治という時代の,自由な新しい感情表現の試みであり,それまでの形式を脱した新しい短歌の可能性を開いた。そうした歌人としての活動と,与謝野鉄幹<てっかん>とのはげしい恋愛の末の結婚が話題となり,晶子は奔放な女性だというイメージが広がった。
さて,日露戦争のさい,晶子は旅順攻略戦に加わっていた弟のことを思い,「あゝをとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ」という節で始まる有名な詩を発表した。この詩は当時,愛国心に欠けるとの非難を浴びた。しかし,晶子にとってそうした非難は心外であった。
というのも,晶子は戦争そのものに反対したというより,弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから,その身を案じていたのだった。それだけ晶子は家の存続を重く心に留めていた女性であった。実際,晶子は,大正期の平塚らいてう<ちょう>らの婦人運動を当初支持したが,晶子の人生観や思想そのものは,家や家族を重んじる着実なものであった。晶子自身は歌人として活動を続けながら,大家族の主婦として,妻や母としてのつとめを果たし続けた。夫であり,12人の子の父であり,文学上の同志であった鉄幹の死を,晶子は万感の思いを込めて次のように歌った。
平<たい>らかに今三<いまみ>とせほど
十<とお>とせほど二十年<はたとせ>ほども
いまさましかば |