| 【検証】現行歴史教科書シリーズ(5)根拠なき南京市民虐殺説 |
| 亜細亜大学教授 東中野修道 |
平成11年10月、産経新聞連載の「中学社会科教科書の通信簿8」において私は南京事件にかんする教科書の記述を「1」と評価した。この評価にたいして反論があった。それは子どもと教科書全国ネット21編『教科書攻撃のウソを斬る一「新しい歴史教科書をつくる会」がねらうもの』(青木書店)の中の「歴史の真実を消すことはできない−『南京事件』」で、反論者は私が検証の際に用いた論拠を「すべて学問的に反証され、すでに破綻した、使い古しの史料」だと言う。本当に、「反証され、すでに破綻してしまった」論拠であったのか。反論のあった4点について再度検証してみたい。
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| 盧溝橋事件 |
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日中戦争の前奏となった盧溝橋事件について、反論者(氏名不詳)は日本側が「一方的に攻撃命令を下してしまった」から、「その責は日本側が負わねばならない」と言い、そもそも事件の遠因は日本軍が「中国の地」にいて「夜間演習」を行っていたことにあったと言う。
当時、自国民保護のため北京に駐留していたのは、日本のみならず、米、英、仏、伊の軍隊であった。 これは義和団事件の最終議定書に基づく5ヶ国の権利であり、外国軍隊は実弾射撃を伴わない限り通告の義務なしに演習できた。しかし日本軍は当地の宋哲元の第29軍の誤解を招かないよう「好意的に通報」(寺平忠輔『盧溝橋事件』50頁)していた。
日本軍の使用していた弾は空包(空砲)であった。鉄帽も食糧も、日本軍は「何一つ用意しておらず」(荒木和夫『盧溝橋の一発」80頁)という状態であった。そこで当時の事実の経過を時系列的に並べてみよう。
[7月7日]
22時40分、支那軍一度目の実弾攻撃。
2度目の支那軍実弾攻撃。
23時頃、行方不明となっていた志村二等兵帰隊。
[7月8日]
午前2時、志村二等兵帰隊の事実を宛平県長に通告。
乍前3時25分、3度目の支那軍実弾攻撃。
午前5時半、4度目の支那軍実弾攻撃。 日本軍、この時初めて応戦。
このように、日本軍は「第2、第3の挑戦」にも隠認自重し、事件不拡大方針を堅持」(荒木96頁)し、日本軍の応戦までに約7時間もの時間が経過していた。国民党の第29軍こそが挑発したのであって、事件の責めは第29軍が負わねばならない。
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| 虐殺体の数 |
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虐殺の数は教科書によって、数十万、20万、10万とまちまちであった。そこで問題になるのが陥落前の人口である。被虐殺者数以上の人口がなければならないからである。
反論者は1937年11月、南京市が国民政府に送った書簡には人口50万と記されている」という。そこで、その「書簡」を『南京大虐殺否定論13のウソ』(86頁)から引用する。
「調査によれば本市[南京城区]の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のために食料送付が必要である(中国抗日戦争史学会編『南京大虐殺」北京出版社、1997年、512頁)」
たしかに「現在の人口は約50余万」とある。ところが反論者は次の2点を見落としていた。
第1に、この書簡の日付11月23日である。東亜同文会編『新支那現勢要覧』(昭和12年、760頁)によれば、南京の国民政府が南京放棄を決定したのが11月16日で、中華民国の政府機関は即日3日以内(18日まで)に撤退準備完了せよと命令された。ラーベ日記も記すように20日には新聞に遷都が公表された。 かかる状況下、しかも多くの市民が南京脱出中の大混乱の最中、人口にかんする「調査」が可能であったか。又、その必要性があったであろうか。
第2に、首都移転発表のもたらす影響である。これは南京陥落不可避の発表であり、それに続く古来からの三光作戦「堅壁清野」(『後漢紀』巻四)の始まりを意味していた。12月8日『ニューヨーク・タイムズ』が報ずるように、支那軍が南京全市を「焼き払う」という噂は、当局の懸命の否定にもかかわらず、人々の間に蔓延していた。
つまり首都移転発表が、市民大脱出の引き金となり、城内や場外の市民は12月8日全城門が閉鎖されるまで脱出に懸命となった。南京は、城内も、特に城外が、戦場になると予想されており、戦場に居残る物好きはいなかった。人口の急激な減少が始まったのである。
リリー・アベック「フランクフルタア・ツァイトゥンク」紙特派員は「先週およそ20万の人々が南京を去った。かつての100万都市南京は、既にそれまでに35万人に減少していたから、今ではせいぜい15万人だ」と11月下旬に記録していた。
従って、私が傍点をふった「将来は20万人と予想される」という部分は、「11月23日現在50万」の人口が陥落時には「20万」に急減すると予想されるという意味なのである。
そうではない、11月23日に50万人いたと主張し、陥落時も50万人いたと主張するためには、23日から全城門閉鎖までの15日間、誰も南京から脱出しなかったと言わねぱならない。
陥落5日前、全城門が閉ざされ、南京防衛軍司令官唐生智は城内の全市民にたいして安全地帯に避難するように命じた。こうして安全地帯は「寿司詰め」となった。安全地帯の外は、ラーベやティンパーリや日本軍が記すように、「無人地帯」となった。つまり、安全地帯の人口が陥落直前の南京の人口と言ってよかった。
では陥落直前の人口と陥落後の人口はどうであったのか。陥落半月前の11月28日、「ここ南京には未だ20万人が住んでいる」(ラーベ日記69頁)と王固磐警察庁々長が発表していた。 陥落後、5日目のこと、国際委員会の九号文書(P17)は食料不足のため「20万人市民の多くを如何に餓死から守るか困難だ」とは記していた。陥落十日後の24日から住民登録が開始され、ラーベ委員長は12月27日付けの26号文書に「20万人市民」と明記し、署名していた。
つまり「将来は20万」という予測が、陥落後も、多くの人に追認されていた。大量殺害が生じれば人口は当然減る。ところが陥落直前の人口と、陥落後の人口に、変動はなかったのである。
次に虐殺の数を示すためには、埋葬された死体の数を検証しなくてはならない。反論者は中華民国が東京裁判に提出した数に固執する。それは崇善堂も埋葬したという約11万2千体も含めて全体で埋葬数約26万と主張していた。しかし、その埋葬記録の信憑性は全くなかった。
今から4年前の平成8年(1998年)に、私は「歴史の研究か歴史の歪曲か南京大虐殺論の陥穿(VS笠原十九司)」を『近現代史の授業改革4』に発表したが、その骨子は、今になっても全く反論されていない。 そこでも指摘したように、重労働の埋葬作業はボランティアではなく、金になるビジネスであった。仕事量に応じた賃金を、日本軍特務機関と南京安全地帯国際委員会が支払っていた。賃金を支払う関係上、日本軍特務機関も国際委員会も簡単な埋葬記録を残していた。ではどのように記録されていたか。
埋葬作業が南京で始まった時、当地(南京)で当事者(ベイツ委員長)の手になる記録「南京における救済状況」(一等史料)は、南京の救済活動が「すべて」国際委員会のもとで展開されていると言い、紅卍字会のみを埋葬団体として挙げていた。
また後の1939年(昭和14年)に当事者(ベイツ委員長)の手で作成された『南京救済国際委員会報告書』(二等史料)は、南京の埋葬は紅卍字会の手で全て「完了」したと報告していた。
さらに大正元年創刊のThe China Year Book(三等史料)も、当事者の記録を基に、「紅卍字会は2つの無料食堂を維持し、死体dead
bodiesを埋葬する上で貴重な援助を行った」と南京の救済活動を記録していた。
日本軍特務機関も南京の埋葬は紅卍字会のみに委託したとしている。このように各種の記録を突き合わせても埋葬団体は紅卍字会のみという点で一致している。反論者が信憑性を「高く評価」するという崇善堂は、当時、休業中であった。 しかも埋葬は活動範囲「外」であった。
同じように埋葬期間についても当時の記録を突き合わせると「実働約40日」という点で一致している。従って拙著『「南京虐殺」の徹底検証』に記したように埋葬体は多く見積もっても1万4千体にしかならない。反論者は、埋葬団体、実働日数、埋葬量などの検証を怠っているのである。 |