平成12年7月号(通巻22号)より
【検証】現行歴史教科書シリーズ(5)根拠なき南京市民虐殺説
亜細亜大学教授 東中野修道
 平成11年10月、産経新聞連載の「中学社会科教科書の通信簿8」において私は南京事件にかんする教科書の記述を「1」と評価した。この評価にたいして反論があった。それは子どもと教科書全国ネット21編『教科書攻撃のウソを斬る一「新しい歴史教科書をつくる会」がねらうもの』(青木書店)の中の「歴史の真実を消すことはできない−『南京事件』」で、反論者は私が検証の際に用いた論拠を「すべて学問的に反証され、すでに破綻した、使い古しの史料」だと言う。本当に、「反証され、すでに破綻してしまった」論拠であったのか。反論のあった4点について再度検証してみたい。
盧溝橋事件
日中戦争の前奏となった盧溝橋事件について、反論者(氏名不詳)は日本側が「一方的に攻撃命令を下してしまった」から、「その責は日本側が負わねばならない」と言い、そもそも事件の遠因は日本軍が「中国の地」にいて「夜間演習」を行っていたことにあったと言う。

 当時、自国民保護のため北京に駐留していたのは、日本のみならず、米、英、仏、伊の軍隊であった。 これは義和団事件の最終議定書に基づく5ヶ国の権利であり、外国軍隊は実弾射撃を伴わない限り通告の義務なしに演習できた。しかし日本軍は当地の宋哲元の第29軍の誤解を招かないよう「好意的に通報」(寺平忠輔『盧溝橋事件』50頁)していた。

 日本軍の使用していた弾は空包(空砲)であった。鉄帽も食糧も、日本軍は「何一つ用意しておらず」(荒木和夫『盧溝橋の一発」80頁)という状態であった。そこで当時の事実の経過を時系列的に並べてみよう。

[7月7日]
22時40分、支那軍一度目の実弾攻撃。
2度目の支那軍実弾攻撃。
23時頃、行方不明となっていた志村二等兵帰隊。

[7月8日]
午前2時、志村二等兵帰隊の事実を宛平県長に通告。
乍前3時25分、3度目の支那軍実弾攻撃。
午前5時半、4度目の支那軍実弾攻撃。 日本軍、この時初めて応戦。

このように、日本軍は「第2、第3の挑戦」にも隠認自重し、事件不拡大方針を堅持」(荒木96頁)し、日本軍の応戦までに約7時間もの時間が経過していた。国民党の第29軍こそが挑発したのであって、事件の責めは第29軍が負わねばならない。
虐殺体の数
 虐殺の数は教科書によって、数十万、20万、10万とまちまちであった。そこで問題になるのが陥落前の人口である。被虐殺者数以上の人口がなければならないからである。

反論者は1937年11月、南京市が国民政府に送った書簡には人口50万と記されている」という。そこで、その「書簡」を『南京大虐殺否定論13のウソ』(86頁)から引用する。

「調査によれば本市[南京城区]の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のために食料送付が必要である(中国抗日戦争史学会編『南京大虐殺」北京出版社、1997年、512頁)」

 たしかに「現在の人口は約50余万」とある。ところが反論者は次の2点を見落としていた。

 第1に、この書簡の日付11月23日である。東亜同文会編『新支那現勢要覧』(昭和12年、760頁)によれば、南京の国民政府が南京放棄を決定したのが11月16日で、中華民国の政府機関は即日3日以内(18日まで)に撤退準備完了せよと命令された。ラーベ日記も記すように20日には新聞に遷都が公表された。 かかる状況下、しかも多くの市民が南京脱出中の大混乱の最中、人口にかんする「調査」が可能であったか。又、その必要性があったであろうか。

 第2に、首都移転発表のもたらす影響である。これは南京陥落不可避の発表であり、それに続く古来からの三光作戦「堅壁清野」(『後漢紀』巻四)の始まりを意味していた。12月8日『ニューヨーク・タイムズ』が報ずるように、支那軍が南京全市を「焼き払う」という噂は、当局の懸命の否定にもかかわらず、人々の間に蔓延していた。

 つまり首都移転発表が、市民大脱出の引き金となり、城内や場外の市民は12月8日全城門が閉鎖されるまで脱出に懸命となった。南京は、城内も、特に城外が、戦場になると予想されており、戦場に居残る物好きはいなかった。人口の急激な減少が始まったのである。

 リリー・アベック「フランクフルタア・ツァイトゥンク」紙特派員は「先週およそ20万の人々が南京を去った。かつての100万都市南京は、既にそれまでに35万人に減少していたから、今ではせいぜい15万人だ」と11月下旬に記録していた。

 従って、私が傍点をふった「将来は20万人と予想される」という部分は、「11月23日現在50万」の人口が陥落時には「20万」に急減すると予想されるという意味なのである。

 そうではない、11月23日に50万人いたと主張し、陥落時も50万人いたと主張するためには、23日から全城門閉鎖までの15日間、誰も南京から脱出しなかったと言わねぱならない。

 陥落5日前、全城門が閉ざされ、南京防衛軍司令官唐生智は城内の全市民にたいして安全地帯に避難するように命じた。こうして安全地帯は「寿司詰め」となった。安全地帯の外は、ラーベやティンパーリや日本軍が記すように、「無人地帯」となった。つまり、安全地帯の人口が陥落直前の南京の人口と言ってよかった。

 では陥落直前の人口と陥落後の人口はどうであったのか。陥落半月前の11月28日、「ここ南京には未だ20万人が住んでいる」(ラーベ日記69頁)と王固磐警察庁々長が発表していた。 陥落後、5日目のこと、国際委員会の九号文書(P17)は食料不足のため「20万人市民の多くを如何に餓死から守るか困難だ」とは記していた。陥落十日後の24日から住民登録が開始され、ラーベ委員長は12月27日付けの26号文書に「20万人市民」と明記し、署名していた。

 つまり「将来は20万」という予測が、陥落後も、多くの人に追認されていた。大量殺害が生じれば人口は当然減る。ところが陥落直前の人口と、陥落後の人口に、変動はなかったのである。

 次に虐殺の数を示すためには、埋葬された死体の数を検証しなくてはならない。反論者は中華民国が東京裁判に提出した数に固執する。それは崇善堂も埋葬したという約11万2千体も含めて全体で埋葬数約26万と主張していた。しかし、その埋葬記録の信憑性は全くなかった。

 今から4年前の平成8年(1998年)に、私は「歴史の研究か歴史の歪曲か南京大虐殺論の陥穿(VS笠原十九司)」を『近現代史の授業改革4』に発表したが、その骨子は、今になっても全く反論されていない。 そこでも指摘したように、重労働の埋葬作業はボランティアではなく、金になるビジネスであった。仕事量に応じた賃金を、日本軍特務機関と南京安全地帯国際委員会が支払っていた。賃金を支払う関係上、日本軍特務機関も国際委員会も簡単な埋葬記録を残していた。ではどのように記録されていたか。

 埋葬作業が南京で始まった時、当地(南京)で当事者(ベイツ委員長)の手になる記録「南京における救済状況」(一等史料)は、南京の救済活動が「すべて」国際委員会のもとで展開されていると言い、紅卍字会のみを埋葬団体として挙げていた。

 また後の1939年(昭和14年)に当事者(ベイツ委員長)の手で作成された『南京救済国際委員会報告書』(二等史料)は、南京の埋葬は紅卍字会の手で全て「完了」したと報告していた。

 さらに大正元年創刊のThe China Year Book(三等史料)も、当事者の記録を基に、「紅卍字会は2つの無料食堂を維持し、死体dead bodiesを埋葬する上で貴重な援助を行った」と南京の救済活動を記録していた。

 日本軍特務機関も南京の埋葬は紅卍字会のみに委託したとしている。このように各種の記録を突き合わせても埋葬団体は紅卍字会のみという点で一致している。反論者が信憑性を「高く評価」するという崇善堂は、当時、休業中であった。 しかも埋葬は活動範囲「外」であった。

 同じように埋葬期間についても当時の記録を突き合わせると「実働約40日」という点で一致している。従って拙著『「南京虐殺」の徹底検証』に記したように埋葬体は多く見積もっても1万4千体にしかならない。反論者は、埋葬団体、実働日数、埋葬量などの検証を怠っているのである。
市民虐殺
 私は市民虐殺はなかったと次のように述べた。

 貧しい市民は南京に残って安全地帯に避難し、広さ約4キロ平方メートルという狭い場所に人口20万人が集結した。人口密度は20平方メートルに1人、縦5メートル、横4メートルの土地に1人いた勘定になる。

 このような混雑の中、連続40日間に及ぶ毎日7千人規模の大虐殺があったのであれば、目撃者がいて、欧米人16人の構成する国際委員会に親兄弟、隣人、友人が、直ぐ通報して、欧米人も駆けつけていたはずである。 ところが欧米人の訴えの内容はほとんどが伝聞であった。その訴えを聞いた欧米人はほとんど見にも行っていない。 それをまとめた中華民国の政府機関と目される国際問題委員会監修・徐淑希編『南京安全地帯の記録』(1939年5月)を見ても、殺人の記録は26件、うち目撃は2件に過ぎなかった。そのうちの一件は「合法的処刑」であった。 残る一件が後述のマギーの記録であった。

 当時の公式記録には殺人26件としか記録されていなかった。にもかかわらず、反論者は安全地帯における無差別殺戮を主張し、その証拠として次の二つの証言をあげる。

 第1に、「東京裁判史料に載っているジョン・マギー牧師ら安全区国際委員の目撃したことをふくめた貴重な証言」であった。この証言は洞富雄編『日中戦争南京残虐事件資料集』第1巻89頁に出てくる。 しかし、東京裁判でマギーは実際何件の殺人を目撃したのかと問い詰められた時、「僅力一人ノ事件ダケ」(103頁)であったと、次のように証言した。 「其ノ次ノ日(注、12月17日)ノ出来事デアリマスガ、私ハ他ノ三人ノ外国人、其ノ外国人ノニ人ハ『ロシア』人、一人ハ私ノ同僚ノ『フォスター(Ernst H Forster)』サンデアリマシタガ、私共是ダケノ外国人ハ家ノ『バルコニー』カラ外ヲ見マシテ、実際中国人ガ一人殺サレルノヲ目撃シタノデアリマス」(89頁、注記は筆者)

 1人の支那人が通りを歩いていたところ、日本軍が後ろから誰何したため、彼は驚いて逃げ去ろうと走り、竹垣のある道を曲がったが、その先は行き詰りであった。そこへ追いついて来た日本兵が「此ノ支那人ノ顔二向ケテ発砲シテ殺シタ」そうである。

 しかし、証言にたいしては裏づけが必要不可欠である。この証言の裏づけとなるマギーの当時の日記(12月19日)と比較検証してみよう。

 「ちょうど一昨日(注、12月17日)も、私たちの住んでいる家の直ぐ近くで、私はかわいそうにも一人の男が殺されるのを見た。 実に多くの支那人は臆病で、誰何されると、愚かにも逃げ出す。その男に起きたのもこれだった。私たちの目に入る竹垣の角を、ちょうど曲がったところで、その殺害が生じたとき、その実際の殺害を私たちは見ていなかった。あとでコーラがそこに行って、その男は頭を二発撃たれていたと語った」(傍点(アンダーライン)筆者。マーサ・スモーリィ編『アメリカ人宣教師の目撃した南京大虐殺1937〜1938』P.23)

 私が傍点(アンダーライン)を付したように、マギーが東京裁判で語ったことは当時の日記の記録と食い違っている。裏づけが確実でなければ、信憑性はなかったと言われても仕方がないであろう。(私が傍点(アンダーライン)を付した部分を、滝谷二郎『目撃者の南京事件−発見されたマギー牧師の日記』(三交社、40頁)は、載せていない。同じくインターネットの「マギーの証言」もそれを省略している。)

 第二に、反論者は、無差別殺戮の証拠として、南京安全地帯国際委員会委員長のラーベの日記を挙げ、「安全地帯における日本軍の虐殺を証言した画期的なもの」と述べている。

 しかしラーベ日記のどこにも無差別殺戮場面を目撃したとは記されていない。反論者はその箇所を提示すべきであった。その提示がないので、私がラーベの日記からそのような感じのする唯一の箇所を挙げてみると、12月13日南京陥落の当日ラーベは「上海路へと曲がると、そこにもたくさんの死体がころがっていた」(108頁)と記している。

 あたかも日本軍が殺したかのような思わせ振りであったが、ラーベの見た死体は戦死体なのか、虐殺体なのか、それとも支那兵の手になるものか、日本軍の殺害したものか、不明であった。

 そこで、この記述と同じような記述を当時の記録に探してみた。南京防衛軍の軍医であったという蒋公毅の「陥京三月記」(『南京戦史資料集-630頁」)は、12月12日、「上海路では雑踏の足音にまじって争い、刃をふるう声が聞こえた。近くの小道からは時折り、鋭い助けを呼ぶ声が聞こえた。これはひと握りの獣のような裏切り者が混乱に乗じて通行人に害をなすものであった」と記している。

 上海路という限定された場所の死体から考えると、これはラーベがその翌日見たという死体と同じであったであろう。そうなると日本軍の殺害ではなかったことになる。事件発生当時、事件発生場所で、関係者の記した虐殺目撃の記録(一等資料)がない限り・市民虐殺があったとは到底言えないのである。
東中野 修道(ひがしなかの しゅうどう)
昭和22年、鹿児島生れ。同46年、鹿児島大学法文学部卒。同52年、大阪大学大学院文学研究科博士課程修了。同60年、西ワシントン大学客員教授(日本思想史)。文学博士。日本「南京」学会会長。主な著書に、『徹底検証「南京大虐殺」』前衛出版社(台北)、『南京大屠殺的徹底検証」新華出版社(北京、海賊版)、『「南京虐殺」の徹底検証』展転社、『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』共著・祥伝社、『国家破産−東ドイツ社会主義の45年』展転社ほか多数。