平成13年9月号(通巻28号)より
日本人として「韓国併合」をどう考えるべきか
明星大学戦後教育史研究センター 勝岡寛次
はじめに
 戦韓国併合は近代日本史のアキレス腱である。

 筆者は昭和32年生れだが、筆者のように戦後の教育しか受けていない世代にとって、韓国併合とは近代日本の犯した「悪」の代名詞のようなものである。そこには、大東亜戦争のように「東亜解放」のために戦ったという見えやすい大義の側面もなく、台湾統治のように台湾人から却って感謝されるといった要素もなく、韓国人からひたすら罵倒と非難を浴びせられるだけの、日本人自身が顔をそむけたくなるような歴史の暗黒面、としてしか一般には教えられていない。

 しかし、韓国併合については、明治維新以来の日本の理想、「併合」に対する当時の世界の見方、韓国人自身の問題といった様々な角度から光を当て、もう少し冷静な議論をする必要があるように筆者は思っている。
一、「他国を取る」という思想の根底にあったもの
 近代国家は、相互の独立主権、民族自主権を尊重することを以てその第一義とする。従って21世紀の今日の価値観から言えば、一つの国家が他の国家を併合し、その独立を否定することは無条件的に悪と見なされる。しかし、一見当り前のように思われるこの命題も、歴史の針を200年、いやたった100年戻すだけでも、全然当り前ではなかったことが、歴史を調べる者には直ぐに了解されるのである。

 韓国の学者は、日本人は韓国侵略を幕末の頃から考えていたとしばしば非難するが、その例証としてしばしば引き合いに出されるのが吉田松陰である。例えば、彼らは得々として次のような松陰の文章を指し示す。([ ]内・傍線は引用者、以下同様)

…朝鮮を責[攻]めて質を納れ[人質を出し]貢を奉る[朝貢する]こと古の盛時の如くなさしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋<ルソン>[フィリピン]の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。然る後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉[辺境]を守らば、即ち善く国を保つと謂ふべし。(吉田松陰「幽囚録」)

  松陰には、この他にも「朝鮮を取り」と明記した文章もあるから、今日から見れば「侵略」思想以外の何物でもなさそうだが、本当に そうだろうか。文章の前半は「進取の勢」とあるから、朝鮮・満州・台湾・フィリピンを「侵略」して植民地化もしくは併合せよという意味に取れないこともない。しかし、そう解してしまうと、その後が何だかおかしいのである。「侵略」の目的は、普通に考えれば 植民地から徹底的に搾り取り、日本のために奉仕させることになければおかしいだろう。ところが傍線を付した文章の後半は、「民を愛し士を養ひ」とあるように、搾取どころかその地の人民を愛し、武士(軍人)を養成せよと言っているのだ。これでは辻棲が合わない。何と矛盾したことを松陰は言っているのだろう、ということになり かねない。

  実は松陰だけでなく、明治時代の日本人は「他国を取る」ということについて、現代人とは凡そ別の考え方をしていたのである。東亜解放の先駆者として、西郷隆盛の精神を継承していた明治時代の荒尾精という人物も、明治15、6年頃、次のようなことを言っている。「支那に行って支那を取ります。支那を取ってよい統治を施し、それによって亜細亜を復興しようと思います。」(『東亜先覚志士記伝』 上巻)
 
  同様の話は、神道思想家の葦津珍彦氏が、その父君(葦津耕次郎)を回想した中にも出てくる。「父は、しばしば語った。『(中略)朝鮮半島に、北方からの強大な圧力が及んで来ると、日本はいつでもお びやかされる。今も清国、ロシヤの圧力が半島に及んで来てゐる。陛下も御心配にちがひない。韓国の人民は、専制者の暴政の下で無力に苦しんでゐると聞く。おれが一つ韓半島に渡って、国王となり人民を救ひ、対北方の国防線を固めて、日本を無事の地におき、天皇陛下の御心を休めたい。(中略)」かくして父は、下級通訳程度の速成韓国語を学び、半島に渡った。(中略)明治時代には、こんな途 方もない妄想にとりつかれたやうな、わか者がいくらもいた。」(「韓国紀行」、『葦津珍彦選集』第二巻)

  右の三人の思想は、今日から見れぱ荒唐無稽とも取れようが、少なくても朝鮮や支那を「取る」ということについて、古宅も良心の呵責を感じていなかったことだけは確かである。では何が、彼らをしてそのような行動へと駆り立てたのか。

  この時代の日本人の思想的背骨を成したものは漢学で、特に『孟子』の与えた影響は大きかった。『孟子』の中には、「他国(ここでは燕<えん>の国)を取ることは是か非か」という命題が論議されている場面がある。これに対する孟子の答は、次の如きものであった。「之を取りて燕の民悦ばば、即ち之を取れ。…之を取りて燕の民悦ばざれば、即ち取る忽かれ。」(梁恵王章句下)松陰はこれに註して、更に次のように論じている。「真に民心を得るに足らば、其の余亦何ぞ多 言せん。世の軽佻浮薄の徒、此の義を想はずして徒らに遠略に志すは、吾が甚だ催<おそ>るる所なり。」(『講孟余話』巻の一)

  即ち孟子や松陰にとって、他国を取る取らないなどということは、 第一義の問題ではなかった。第一義は、取って他国の民が幸福になるか否か、「真に民心を得る」に足るか否か、この一点にあった。朝鮮の民が悪政に苦しんでゐるなら、国を取ってその国に仁政を施し、朝鮮の民を幸福にすることは正義と考えられた。この第一義を疎かにして、「徒らに遠略に志す」、即ち「他国を取る」ことしか眼中にない者を、松陰などは「世の軽佻浮薄の徒」として、むしろ批判している。

  松陰にしても、前記の荒尾精や葦津耕次郎にしても、考えていたのは単に他国の略取というだけのことではない。その根底には、西欧列強に浸蝕されつつあったアジア全体の運命に対する深刻な危機意識があり、朝鮮や支那の民を救い、アジアを復興することで西欧列強に対抗せんとする強烈な使命感のようなものがあったことは、 先に引用した傍線部からも十分読み取っていただけると思う。これが当時の日本人の考えていたことなのであり、彼らの抱懐した理想 は、今日の論者が非難するやうな、浅はかな「侵略」思想などとは 何の関係もない。
ニ、韓国併合を当時の世界は歓迎した
 第二に、韓国併合は列強の支配した当時の世界にあっては、少しも奇異なことではなく、むしろ朝鮮半島を安定させるものとして、列強に歓迎された事実を指摘しておかねばならない。(以下の引用は、国際ニュース事典『外国新聞に見る日本」第四巻に拠った。)

 例えば、米国のニューヨーク・タイムズ紙は、併合を肯定する立場から次のような論評を掲載した。「エジプトにおけるイギリスの立場、マダガスカルにおけるフランスの立場、東アフリカにおけるドイッの立場、フィリピンにおける合衆国の立場も、朝鮮における日本の立場よりも明確に民主的な基盤の上に立っているわけではない。そしてもし、朝鮮人の大きな部分、おそらく大多数の意向はこの王国の併合において無視されたということが、疑問の余地はないが真実ならば、…3つの選択肢しかない。その結果として大混乱の発生が確かでも放棄するか、他の列強へ引き渡すか、支配を全うするか。日本は、合衆国と同様、3番目の道を選んだのだ。」(1910年8月26日付)

 フランスのル・タン紙は、韓国併合を殆ど対岸の火事視した。「朝鮮の日本による掌握はすでに進んでいたので、併合は驚くにはあたらない。いわば宿命的なことだった。それにこの小さな国の運命はこの数年ヨーロッパの列強にとってはあまり関心を引きつけるものではなくなっていた。ヨーロッパ列強は、介入を求める韓国皇帝の絶望的な呼びかけにも、耳を貸さないままだった。(中略)朝鮮を征服する必要性はずっと日本にのしかかつていた課題だった。アジア大陸の一角を占めるこの国は日本にとつて、経済的観点からも、戦略的観点からも必要だった。」(1910年8月27日付)

 日露戦争で日本と死闘を演じたロシアのジュルナル・ド・サン・ペテルスブール紙は、日本の韓国併合に諸手を挙げて賛成した。「これが事実だとすれば、人類は、新しく豊かな国がまた一つ文明世界に加わることを喜ぶだけのことだ。フランスがアルザス=ロレーヌを失って以来、またとりわけボスニアとヘルツェゴビナがハプスブルグ王国に組み込まれて以来、『併合』という言葉はおぞましい意味を持ち、国家間の強盗と同義語になった。だが、朝鮮を日本が掌握することにはこのような意味あいを持たせることはできず、むしろアルジェリアのフランスヘの併合やイギリスによエジプトの占領、カフカスあるいはヒヴァ汗国のロシアヘの主権移行などがもたらした恩恵の記憶を喚起するものだ。1904年から1905年の[日露]戦争当時には、あらゆる意味において未開の国であり、絶え間ない混乱の温床であり、隣接国による競争の対象であり、その結果、中日、露日の戦争の第一の原因ともなった朝鮮は、日本の保護統治下に入って以来、夢のような変化の道を歩んでいる。見る見るうちに、広大な鉄道網や電信電話網が敷かれた。公共建築物や工場が建ち並び、日増しに増え続けている子供たちは学校に通っている。農業も盛んになっている。輸出は5年で3倍以上になった。財政は、輝かんばかりの状態にある。港は活気に満ちている。司法制度が改革され、裁判の手続きもヨーロッパの裁判所に決して引けをとらない。唖然とする世界の予想外に、満州の平原や旅順や対馬で発揮された日本の活力の魔法の杖がもたらす変革により、4、5年後には古い朝鮮の遺物は跡形もなくなっているだろう。文明とは平和主義の道におけ進歩のことであり、この観点に立てば、朝鮮の日本への併合は極東の繁栄と発展の新た要素となるだろう。」(1910年8月26日付)

  右のような事実は、当時朝鮮が世界からどのように見られていたかという客観的な情勢を示して余りある。日本は列強の干渉を恐れた結果、当時の国際法にも非常に配慮した。近年韓国は、日韓併合条約は強制されたものだから無効だと主張することが多いが、韓国併合は少なくとも当時の国際法に照らす限り、完全に合法的なものだった。「列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど『合法的』手続きを踏んでいなかった」とは、占領軍が発禁に付したヘレン・ミアズ『アメリカの鏡・日本」の評である。
三、亡国を惹起した朝鮮自身の責任
 第三に、朝鮮を亡国に追い込んだそもそもの原因は、朝鮮自身にあった。この冷厳な事実を、もうそろそろ韓国も、認めるべきである。

 韓国の教科書を見ると、日本は明治維新の当初から、朝鮮侵略の腹黒い意図を持っていたように書いてある。こんなべらぼうな話はないので、韓国にかかると日本の国は初めから完全に強盗扱いである。そして自分の方はどうかと言えば、日本の理不尽な支配に終始抵抗した、英雄的な反日抵抗史観一色なのだ。(詳しくは拙著『韓国・中国「歴史教科書」を徹底批判する』小学館文庫、を参照されたい。)
 
  だが、実際には韓国は、自力では防衛すらも覚束ない、弱小国の一つに過ぎなかったのではないか。李朝末期の朝鮮には、軍隊は二千数百名しかいなかった。李朝の半分にも満たない人口しかなかった高麗ですら、中央軍は4万5千名もいたというのに、である(呉善花『韓国併合への道』)。それでいてプライドだけは高く、伝統的な小中華主義による事大意識を最後まで引きずって、清国にロシアにと、常に強大国に依存するばかりで、独立を死守するための自助努力は一切怠っていたのが朝鮮の真の姿ではなかったのか。当時の東アジアを襲った西欧列強による国土纂奪の危機に対しても、一番鈍感だったのが朝鮮の知識人であり、国王には国家を統合する何の精神的権威もなく、果てしなき政争に明け暮れた支配階級の両班は利権の維持に汲々として国家の運命など端から眼中になく、国民はただ搾取の対象と見なされ、絞るだけ絞り取られて疲弊し切ってお り、植民地化の危機を救おうという声は、国民のどこからも聞こえてはこなかった。

  僅かに実学の伝統を引いた中人階級の一部に危機意識に目覚めた人々がいたが、金玉均や朴永孝の回りに結集した彼ら独立党は、残念ながら国民からは完全に孤立して、日本が必死になって支えてみても、独立の中心勢力には到底なり得ず、朝鮮は自国を守るに足る近代的軍隊さえ満足に持たぬ弱小国のまま、亡国への道を一直線に 歩むしかなかった。日清戦争後、国王が一年間もロシア公使館に逃げ込んだ「俄館幡遷<がかんはせん>」 という事件も起こって いるが、日本が清国や ロシアと一戦を交えることなくんば、とうの昔に朝鮮は中国領かロ シア領になって、毛沢東やスターリン治下の中国やソ連で何千万単位の犠牲者が出たよう に、朝鮮でも数十万、 数百万単位の犠牲者を出していたことだろう。

  日本の韓国統治下最大の犠牲者を出した三一独立運動でも、犠牲者は数百人からせいぜい数千人規模に止まっている。日本の韓国併合が朝鮮人の誇り高いプライドを打ち砕いたことは事実だろうが、また松陰の言葉を借りれば「真に民心を得る」に至らなかった日本の韓国統治に対する真摯な反省は、それはそれとして必要であると筆者も思っているが、当時の他国の植民地統治と比較してみても、特に日本の統治だけがひどかったわけでは断じてない。韓国の高校 教科書などは、「日帝は世界史でその類例を見出せないほど徹底した悪辣な方法でわが民族を抑圧、収奪した」と書いているが、そのよ うな大嘘を教科書に平気で書くのは止め、もっと冷静に事実を書いて欲しいものである。

  韓国にも、日本の統治を体験したお年寄りを中心としたサイレン ト・マジョリティーのようなものは、まだ残っている。このような 「声なき声」に虚心に耳を傾け、「日本に併合されるに至った『韓国側の問題点』の徹底的な究明」(呉、前掲書)を志す呉善花氏のような若い世代が出てきたことに、筆者は一縷の望みを託している。将来の日本と韓国が、歴史観の相違はありつつも、互いに尊敬し合え るような関係を築くためにも、韓国併合に対する我々日本人なりの歴史の総括は、今後は避けては通れない課題になってくるに違いない。