平成15年5月号(通巻38号)より
捏造された沙也可の事跡
中学歴史教科書で流布される日韓友好の悲しい歴史
拓殖大学教授 下條正男
大阪書籍と清水書院で紹介
 司馬遼太郎が『街道をゆく』の中で、沙也可<さやか>のことを紹介して以来、沙也可は日韓友好の象徴となった。

 沙也可は文禄の役の際、加藤清正軍の先鋒将として釜山に上陸したが、朝鮮出兵に疑問を感じて兵3,000を率いて朝 鮮に投降し、日本軍と戦ったとされる人物だからである。

 その沙也可が、中学の歴史教科書にも登場しているという。大阪書籍と清水書院には次のように記述されている。

朝鮮側についた「沙也可」 九州の大名の武将「沙也可」は、朝鮮に上陸後に出兵への疑問をもち、数千の兵を引き連れて投降しました。そして、火縄銃の装備などを持たない朝鮮軍にその製造法や射撃術を伝え、自らも秀吉軍と戦って、朝鮮に住みついたといわれています。このように、戦いが長引くにつれ、朝鮮との戦いに疑問を持つ人やきびしい寒さや食料不足から、朝鮮側につく人が多くなりました。〉(大阪書籍・コラム)

 一方、清水書院では、「朝鮮に攻め込んだ日本の武将のなかには、朝鮮の文化に感心して朝鮮軍に味方した者もい た」(「秀吉の朝鮮侵略」)と、記されている。

 果たしてこの記述には、信愚性があるのだろうか。というのは、1797年、沙也可六世の孫と称する金漢祚が沙也可の事跡や遺稿を『慕夏堂文集』にまとめ、それを朝鮮研究会が大正4年(1915年)に刊行した際に、青柳南冥、河合弘民、内藤湖南等が偽書であることを証明しているからだ。

 さらに大正13年には、朝鮮史学者の幣原坦が『朝鮮史話』の中で、「結局、慕夏堂の事跡は偽作と断じてよい」としているのである。

 それが何故、一部の歴史教科書では沙也可の事跡が史実とされたのだろうか。大阪書籍の記事では「司馬遼太郎の 『街道をゆく』などでも紹介されている」として、司馬遼太郎が震源地となっている。では、司馬遼太郎は沙也可をどのように描いているのだろうか。(朝日文庫版)

「沙也可はたしかに実在した。」(120頁)
「沙也可は、武士である。」(138頁)
「沙也可はむろん実在した。」(141頁)
「疑問がいつくもありながらも、しかし沙也可は実在した。」(141頁)
「手記が偽作であれ何であれ、筆者とされる沙也可そのひとは実在したのである。」(144頁)
「ここまではほぼ事実であろう。ただ『慕夏堂文集』がこの沙也可の手記というのはあやしい。」(147頁)
「朝鮮史学者の幣原坦がその著『朝鮮史話』(大正13年刊)で解明しているのがもっとも妥当なようにおもえる。」(152頁)

「(『慕夏堂文集』は)発見者である沙也可六世の孫の金漢祚その人の文章ではないかというのが、幣原坦のごく自然 な推論である。しかしながら沙也可そのひとは実在したに相違ない。その伝承も、かれの子孫が住む友鹿洞のひとびとの間で語り継がれていたにちがいなく、たとえかれの手記が六世の孫の金漢祚の偽作になるとしても、記述のあらかたは伝承どおりであるに相違ない。」(153頁)

 ここには論拠も示さず、沙也可を実在したとする小説家司馬遼太郎の面目が躍如としている。幣原坦をはじめ河合弘民等、史家が『慕夏堂文集』を偽書と断定したにもかかわらず、伝承を史実と混同しているからだ。

 では、事実はどうだったのだろうか。司馬遼太郎は沙也可を「サヤカ」と読み、「沙也門(サエモン)」に違いない、と想像を逞しくしている。ところが『慕夏堂文集』では、沙也可の本姓を沙氏と称し、名を也可としているのだ。さらに、沙也可が日本から懐中してきたと称する辛卯式戸籍には、次のように記されていた。

行小僕尹 沙也可古夫楽只二十一
父小射尹 益
祖大僕射尹 沃國
曽祖小射尹 <沃、シタ金>
外祖大公耶射尹 平秀<百百>
妻徐英娘古夫楽只二十
妻平正娘古夫楽只十八

 だがこの戸籍の存在は、かえって沙也可が日本人でなかった証となる。当時の日本に戸籍制度はなく、「辛卯式戸籍」の書式は朝鮮流そのものだからだ。それに、沙氏は朝鮮の姓で、『宣祖実録」にも「沙火同なる者あり。我が国珍島の人也」等と見えている。

 出自が偽りなら、沙也可の事跡も偽作と疑ってよい。『慕夏堂文集』では、沙也可の朝鮮上陸を宣祖25年4月13日としているが、加藤清正軍の釜山上陸は、4月17日だったからだ。

 その後、日本軍は京城(ソウル)を目指すが、進軍は「無人の境に入るがごとし」であった。3,000の兵を率いて日本軍に抗戦したとする『慕夏堂文集』の記述は、あまりにも小説的である。朝鮮の人々は「怨叛して倭と同心」して地方の官庁を襲い、日本軍を嚮導<きょうどう>していたからだ。

 京城でも同じ現象が起きていた。日本軍の入城前に、奴隷文書を保管する掌隷院や刑曹が襲撃されていた。京城の民は、日本軍の「我、汝輩を殺さず。汝が君、茂を虐ぐ」とする宣伝に、「倭もまた人なり。吾等何ぞ必ずしも家を棄てて避けんや」と応じて、避難しなかった。

 苛政に苦しむ朝鮮の民は、日本軍を解放軍と見たからだ。沙也可は「中夏の制度に遵ひ」、「三代の禮義は尽く此にあり」としたが、現実は違っていた。朝鮮の民は日本軍に加わり、「倭奴幾ばくも無し、半ばこれ叛民」の状況にあったからだ。

 この朝鮮の現実を目撃した日本の武将達は、日本軍に反旗を翻すだろうか。だが沙也可は、3,000の兵を率いて日本軍と戦ったのだという。そして、沙也可が金姓を賜り金忠善と名乗るのは、鳥銃(鉄砲)と火薬の製造技術を伝えた功績によるという。『慕夏堂文集』は、鳥銃や火薬製造技術の伝授を、宣祖25年5月のこととしている。

 だが、朝鮮側で鉄砲の製造が始まったのは翌年3月のことで、火薬の製法を得たのは宣祖26年6月。それも捕虜の倭人や、日本軍にいた大豊孫という朝鮮の職人が伝えた技術であった。彼等は死罪を免れる代わりに、鳥銃や火薬を作らされていたのである。それに、降倭に対する処遇は過酷であった。『宣祖実録』によると、彼等は罪人として鎖に繋がれていたからだ。

 このように、鳥銃や火薬の製造法が朝鮮に伝わった経緯も、『慕夏堂文集」に記された沙也可の事跡とは違っていたのである。
過去を姜化した当時の朝鮮の実情
 では、なぜ『慕夏堂文集』には虚偽の事跡が記されたのだろうか。

 朝鮮時代には、先祖を顕彰するため先人の文集が盛んに編纂され、しばしば過去が美化され潤色がなされた。1797年、金漢祚が『慕夏堂文集』を編纂した際も例外ではない。その際は、有力者に序文などを寄せてもらい、権威付けするのが通例であった。『慕夏堂文集』では、1669年に清道郡守の愈<木偏に必>が墓碣を書くと、1759年、徐宗<人偏に及>が愈<木偏に必>の記事を踏襲して譜序を書いたことになっている。さらに邑誌では「其事蹟は」、「徐宗<人偏に及>の撰する所の金氏の譜序に載せり」として、徐宗<人偏に及>の譜序が典拠となっていた。

 いったん歴史像が確立すると、先人の文章は後人の模範となり、後人はそこに新たな歴史を継ぎ足していくのである。その中で、鉄砲や火薬、朝鮮に帰順した事跡は、史実かどうかよりも伝説そのものが称賛の対象となった。

 さらに文集が再刊される時には、時の学者等が美辞麗句を連ね、そこには必ず鉄砲や火薬の事跡が登場した。重要なのは歴史の事実ではなく、朝鮮に貢献したという美談だからだ。

 この『慕夏堂文集」が1907年に再刊された動機も、電線敷設に際し、壬辰の功臣、金忠善(沙也可)の子孫は役費や雑役を免除すべきである、と主張するためであった。その時、『慕夏堂文集』は、格好の証拠であった。

 同じ小説家流の司馬遼太郎は、歴史の事実よりも虚構を重視し、沙也可を『街道をゆく』に取り上げたのであろう。だが、小説は歴史ではない。多く賎民にされた朝鮮半島の降倭たちの運命は、悲惨なものだったからだ。

 『夢遊野談』で李遇駿は「賎中狼毒軽妄、傷害の心を包む者は必ず倭種なり」と言い、朝鮮時代末期の李裕元も、異胎院(今の梨泰院)の由来を「壬辰後、倭種を從置する処なり。其俗なお今に桿毒」と伝え、19世紀に入っても、倭種は差別的な眼差しで見られていた。朝鮮社会の中で降倭の末裔が生きていくには、卓越した過去が不可欠であった。だが、捏造された過去は史実とはほど遠い。沙也可その人は降倭か、朝鮮の賊徒か、定かではない。

 だが、過去を捏造していかねばならない現実は、何と悲しい歴史であろうか。その歴史の事実を枉げ、日韓友好のシンボルにしようとする発想も、何と悲しい歴史観であろう。