| 「冤罪」事件としての聖徳太子虚構説 |
| 大山誠一氏『聖徳太子の誕生』への疑問 |
| 理事・國學院大學講師 高森明勅 |
 |
| 古代史研究の混乱 |
 |
戦後の日本古代史研究の世界では、久しく混乱がつづいてきた。
その混乱の中で、さまざまな珍説・奇説が登場し、しばらく持て囃された後、うたかたのやうに消え去つて行つた。騎馬民族征服王朝説、大化改新否定説や王朝交替説などは、その典型的な例だらう。
奇抜な問題設定と斬新な仮説の提起で人々の注目をひき、学界にも少なからぬ影響を与へたものの、今ではほとんど支持する者はゐない。
近年、関心をあつめてゐる大山誠一氏(中部大学教授)の聖徳太子虚構説も、遺憾ながらそれらと同類のものと見なすほかないやうに思ふ。
以下、大山氏の所説を単著としてまとめた『〈聖徳太子〉の誕生』を俎上に載せ、その当否につき、いささか吟味検討を加へることとする。
 |
| 聖徳太子は架空の人物? |
 |
大山氏の聖徳太子虚構説とはどのやうな見方であるか。まづその点を整理しておく。
同説の結論は「聖徳太子は実在の人物ではなく、架空の人物」(二頁)といふことにつきる。ただし厩戸皇子といふ「有力な王族がいた」(八頁)のは否定しない。厩戸皇子が実在したことはたしかだが、この人物が『日本書紀』に描かれたやうな偉大な政治家であり、たぐひまれな思想家であつた証拠は何一つなく、むしろそのやうな人物像は『書紀』編者による捏造だった
― といふのである。
たしかに衝撃的な結論だ。この説が大きな反響をよんだのも当然だらう。
だが、かかる重大な結論を導くためには、かなり周到で厳格な手続きが求められるはずだ。大山氏は一体、いかなる根拠に基づいて先のやうな結論を主張されてゐるのか。
二つの「証明の方法」がとられた。その一は、聖徳太子関係の史料の真偽を確認し、偽物を排除すること。その二は、問題となる史料について、誰が、いつ、何のために捏造したかを明らかにすることで「虚構の証明」をおこなふ。しかもこの二つの中、大山氏がより重視したのは後者だつた。前者については「史料に疑問があると指摘することはできても、これらの史料を偽物と断定するのは無理」と考へ、後者こそ「より決定的な根拠」とした(一四〜五頁)。
しかし、虚構説の基礎をなすこのやうな立論方法そのものに、重大な欠陥がはらまれてゐると云はざるをえないだらう。
史料の真偽を確認し、偽物を排除するのは当然の手続きだ。問題はない。ただその作業が予断をもたず適正になされてゐるか否かだけを吟味すればよい。
だが、その真偽を断定するのは「無理」としつつ、むしろ捏造の実行者や時期、動機の解明を「より決定的な根拠」と見なす態度は不可解である。
常識的に考へても、史料の真偽がいまだ不明確であるのに、「捏造」の恃ニ人揩竄サの動機を探るといふ方法は、順序が逆だと云ふしかないだらう。史料が偽物と判明した段階で、それを捏造した人物や歴史的背景が問はれることになるのだ。しかも史料の真偽の判定にくらべ、史料の捏造者やその動機を追及し、「断定」する作業は、はるかに困難である。特定の史料につき、「偽物と断定するのは無理」であれば、その捏造者や動機を「断定するのは」ますます「無理」なのだ。
大山氏は何故、このやうな逆立ちした立論方法を思ひつかれたのだらうか。不思議だ。あまり考へたくないことだが、まづ虚構説といふ結論があつて、その結論を通常の史料批判だけで安定的に導くことが困難だつたために、このやうな不可解な「証明の方法」を持ち出したのか。そのやうにでも想像しなければ理解しがたいことである。
 |
| 虚構説への反証 |
 |
では具体的な論点に移らう。まづ大山氏による関係史料の真偽をめぐる検討は、はたして妥当かどうか。
氏は関係史料を『日本書紀』と法隆寺系史料に二分し、その上でそれぞれについて批判を加へる。だが、それら二系統のいづれにも属さない史料が厳存する。
たとへば伊予湯岡碑文だ。推古天皇四年(五九六)を示す「法興六年」の紀年がある。
これをどう評価するか。たしかに「太子没後の作とする説も有力」(東野治之「聖徳太子関係銘文史料」)だが、無下には否定できない。最新の『風土記』逸文研究の成果によれば、この碑文は、和銅六年(七一三)の官命によつて編纂された古風土記に引用されてゐるからだ(荊木美行氏『風土記逸文の文献学的研究』)。つまり同碑文は古風土記よりさらに古い史料で、当然、『書紀』の太子像をもとに捏造されたものとは考へがたい。
また法起寺塔露盤銘(慶雲三年、七〇六)には「上宮太子聖徳皇」の語がある。これを信用してよければ、『書紀』より前に太子を「聖徳」(非常にすぐれた知徳)をそなへた指導者とみる認識がすでにあつたことになる。このやうな史料の存在は、虚構説にとつて致命傷になりかねない。そこで大山氏は、同銘が十三世紀の『聖徳太子伝私記』にしか見えてゐない点を強調し、「贋物」と断定、防戦につとめてをられる(『聖徳太子と日本人』)。
しかし直木孝次郎氏は『万葉集』及び飛鳥・平城京跡出土木簡での用例を検討し、「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではないと考える」(「万葉集と木簡に見える『皇』」)と結論づけられた。
さらに『播磨国風土記』印南郡大国 里条に「聖徳王の御世」との表記がある。これは古代史上の人物についての関連史料を網羅してゐることで評価の高い『日本古代人名辞典』(全七巻)にも取り上げられてをらず、大山氏も看過されたやうだ。その意味では、私が新たに見出した太子関連史料と云つてよいのかも知れない。
この風土記の成立は和銅六年から霊亀元年(七一五)ないし同三年までの間と考へられてをり、今のところこれを疑ふ根拠はない。よつてこの記事は、『書紀』が完成する前から、太子がすでに「聖徳」と称へられてゐたことを示す動かしがたい証拠と云へよう。
以上の検討だけからでも、「『日本書紀』において初めて『聖徳』を備へた『太子』として……創造された」(一〇七頁)などとは到底、主張できないことが明らかとなつたであらう。
 |
| 動機から“犯行”を証明? |
 |
法隆寺系史料の扱ひ方も決して妥当ではない。主な史料について、これまでの研究史を充分踏まへず、各史料を「偽物」と見る説だけを摘み食ひしてゐる印象が強い。
たとえへば法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘について、福山敏男氏の説を持ち出して信憑性を否定してゐる。だがその説が学界に受け容れられてゐるわけではない。むしろ「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」(志水正司氏『古代寺院の成立』)で、「通説では推古三十一年(六二三)の撰文とされている」(東野氏「銘文について」)のが実情だ。虚構説にとつて都合の悪い有力説について慎重な吟味を行はないまま、否定説を無条件に援用して結論に結びつける態度は、とても公正とは云ひがたく、首をかしげざるをえない。
『書紀』の記事の評価についても同様だ。著名な『憲法十七条』への批判は、もつぱら戦前の津田左右吉氏の旧説に依拠し、それでこと足れりとする。その後、津田説に対する説得力のある反論が出されてゐるにもかかはらず、である(井上光貞氏『飛鳥の朝廷』など)。ここでも「摘み食ひ」の姿勢は変はつてゐない。学問的な議論の組み立て方としては、実に奇妙だ。
大山氏の史料操作は全体として、虚構説といふ結論がはじめにあつて、それに有利な材料だけをかき集めてゐるやうに見える。このやうな方法では、厳密な史料批判は不可能だ。「偽物」の証明など、もちろんおぼつかない。
史料の「捏造」が立証できなければ、氏が「決定的な根拠」とされた捏造者の特定や動機の解明にも手がつけられないのが道理だ。
ところが大山氏は藤原不比等らを“聖徳太子”の「作者」と断定された。非常に不思議な論法と云ふほかないが、不比等には「動機」があるからださうだ。
不比等は自分の孫にあたる首皇子(のちの聖武天皇)のつつがない皇位継承とその王権の確立を「悲願」としてゐた。だから『日本書紀』において理想的な皇太子像として恊ケ徳太子揩創造した
― と云ふのである。
犯行の証明もなされぬまま、犯人が断定され、その根拠はこの人物には動機があつたからといふのだから驚く。しかも即位できぬままこの世を去つた聖徳太子のやうな人物像を「捏造」して、首皇子の皇位継承に何か役に立つのか。それ以前に、不比等が『書紀』編纂にどれだけ関与してゐたのかすら、史料上、一切不明で、関はりを否定する有力な見解もある(坂本太郎氏「法隆寺怨霊説について」)。
どうやら聖徳太子虚構説は“冤罪”事件の気配が濃厚である。 |