| リレー随想 |
| 拉致と教科書 |
| 特定失踪者問題調査会代表 荒木和博 |
先日「人間魚雷回天」という映画のDVDを見つけ、購入した。昭和30年、松林宗恵監督作品(新東宝)である。木村功、宇津井健らが海軍の特攻兵器「回天」の搭乗員として悩み、死んでいく姿を描いたものだ。
このDVDを見ていて感じたことは、「実感」である。映画自体もよくできていると思うが、出演している俳優にとって自分が演じている回天の搭乗員、あるいはその周囲の人々はフィクションの世界ではない、同時代の青年であり、自分の別の姿だったのだろうということだ。左翼であれ保守派であれ、戦争について語る人々の多くからはすでに戦争の「実感」が欠落している。だから、マンガチックに日本が悪の権化であるかのように描いてしまったり、逆に大東亜戦争の全てが正しかったとしてしまいやすいのではないか。戦争体験が薄れるにつれて逆に観念の世界が肥大化してしまうのだろう(それは仕方ないことなのかもしれないが)。
ところで、筆者はこの1月に設立された「特定失踪者問題調査会」で代表をつとめている。これは北朝鮮に拉致された可能性のある失跨を調査する団体だが、すでにご家族からの届け出だけで300人近く、独自に情報を入手したものをあわせると150人を越す失踪者の情報が集まっている。
ご家族から寄せられた資料を読み、直接会って話を聞くと、北朝鮮の関与のあるなしにかかわらず、失踪というものがいかに残酷なものであるかが分かる。生きているのか死んでいるのかもわからず何十年も苦しみ続ける家族の苦しみはまさに「生き地獄」である。よく「人の身になって」と言うが、少なくともこと失踪に関する限り、私にはとても「人の身」にはなれない。無責任のそしりを免れないが、失踪者の家族の立場に立つのはあまりに恐ろしくて想像もできないのである。
歴史を完全に追体験することはできない。しかし、限界と格闘しつつ、少しでも真実に近づこうとするのが歴史学であろうし、その表現の一つが歴史教科書であろう。扶桑社の公民教科書ではじめて拉致問題が記述されたわけだが、解決した後には歴史の教科書にも記述されることになるだろう。やがて歴史的事件の一つとなった後でも、その教科書を読んで拉致事件の意味を考える子供たちが育ってもらえれば、と思うのである。
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