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奥山の深山狭戸<みやませばと>に家居せば聞けば愛<かな>しも見れば畏し 保田
與重郎
「美濃国高鷲<たかす>村」と左註にあります。戦後影山正治氏と同道、飛騨の白川村へゆかれた時、美濃から白川街道を辿り、途中高鷲村を通過なさつて、この村の山の深さに驚かれたのでせう。後に先生は「人の住むところとは思へん」と感想を洩らされました。
風光明媚ながら峻瞼な山の中の村は、昭和になつても同様でした」高鷲村は昔幾つかに分かれてゐましたが、何れも耕地が少く、村民の窮乏は想像を絶するものでした。
宝暦の「群上一揆」は、時の金森藩の財政が逼迫し、その対策として、農民の租税を定免取りから検見<けみ>取りに切替へ、年貢の増収を計つたことから始まりました。農民は蹴起して、駕篭訴、箱訴を強行しました。
結果は、藩主の改易、藩吏の処罰、農民は11人の打首といふ、悲惨な大事件で、しかも検見取りは実施されました。
村々が一揆の血気にはやる中、一村だけ記録にない村がありました。その正ヶ洞<しょうがほら>村の庄屋伊兵衛の事蹟を、乏しい資料を発掘してあらはした物語を最近読み、感動しました。
伊兵衛は村の貧窮を救ふには、水がない為に耕せぬ荒地に水を引いて、耕地を殖やさねばと考へました。背後の山から流れ出る、細々とした谷水だけを頼つてゐては、この村が助かる道はないと思つた伊兵衛は、眼下に流れる長良川の水を眺め、あの川の水をこの村に、と思ひつめたのでした。
周到な測量をし、藩庁の許可を受けた上で、取水口となる隣村の諒解、村人の協力も得て、空前の土木事業を始めました。長さ30間、巾、深さ共に3尺の桶を木材で造ることをはじめ、さまざまの苦難を超えて完成し、遂に荒地十町歩を美田にしたのです。
宝暦の一揆が起つた時、正ヶ洞の村が之に与しなかつたのは、水路開発に理解を示された、旧藩主に義理を立てたといひます。
増税に反対して立上つた一揆の義民たち。村の増産に道を開いた一人の庄屋。
二百数十年前のことです。 |