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| 日本の再生へ向けた危機超克の文明史 中西輝政氏『国民の文明史』の価値 |
| 理事・國學院大学講師 高森明勅 |
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“もう一つの『国民の歴史』”への期待
率直に言つて、本書の出現に寄せる私の期待は、すこぶる大きかつた。なぜなら、すでに西尾幹二氏・中西輝政氏『日本文明の主張――『国民の歴史』の衝撃』(平成十二年、PHP研究所)を読んでゐたからだ。同書を読んだ時の「衝撃」は、今も忘れない。
西尾氏の『国民の歴史』がなしとげた巨大な達成については、改めて述べるまでもないだらう。そのことを証明するやうに、賛否を含めておびただしい反響があつた。それらの中で、私にとつて最も稔り豊かな成果と思へたのが、西尾・中西両氏の対談を収めた『日本文明の主張』だつた。
それは、単なる『国民の歴史』をめぐる言説といふ域を超えて、中西氏による?もう一つの『国民の歴史』?の登場を予感させるのに十分な内容を持つてゐた。同書における中西氏の発言は、宗教史を含む日本歴史全般について、氏が並々ならぬ該博な知識を身につけ、しかもそれを雄大な文明史的観点から的確に整理し、深く掘り下げてをられることを如実に示してゐた。これを読んだ私は、いつの日にか中西氏自身の手になる?もう一つの『国民の歴史』?が世に出ることを期待したのである。
なぜ文明史か
その期待は思つたよりも早く、予想以上の水準のものとして、かなへられた。すなはち『国民の文明史』の刊行である。本書が「国民」シリーズ中、最大のスケールをもつことは、誰しも異論がないだらう。つねに世界の文明史を念頭におきつつ、議論が組み立てられてゐるからだ。
だが本書は、何よりも日本人が今どこに立つてゐるのかを、最も壮大な視点から明らかにしてゐる点に、大きな意味があるだらう。
政治史や経済史の立場から、現代日本の「危機」の構造を包括的に描き出さうとしても、どうしても断片的・局所的な把握にとどまつてしまふ。そこで、現代の危機とトータルに向き合はうとすれば、不可避的に文明史といふ視座が求められることになるのだ。
文明史とは「千年くらいを一つの単位として歴史を考える営み」であると説明される。これだけ長いスパンで歴史を眺めようとすると普通、国家は中心的な対象の座から外れざるを得ない。スペインとかオランダなどではなく、ヨーロッパ文明といふ「文明」そのものが主な対象になつてくる。
ところが日本の場合は、根本的に事情がちがふ。日本といふ一国がそのまま日本文明と「完全に重なっている世界唯一のケース」として、中西氏はそのことがもつ意味を、繰り返し強調してをられる。
では、かかる文明史の立場から、どのやうな歴史上の論点が浮かび上がつてくるだらうか。
危機を乗り越える「文明力」
例へば、日本とシナの決定的な文明上の相違点が、次のやうに実にクリアに剔抉される。「日本文明は、『海洋文明』であり『重層文明』であり『ボーダーフル文明』ということになり、中国文明は『大陸文明』で『更地文明』そして『ボーダーレス文明』という組み合わせに合致し、すべての点で中国の文明は日本とは対極の本質を持つ」と。
また、「『江戸』と『明治』は一つの時代」とか、「大正期の過ちが昭和の敗戦につながった」などの認識も、文明史の観点に立つてこそ、初めて十分な説得力を持つて導き出され得たものだらう。
とくに大正期のゆがみが前提となつてゐたからこそ、アメリカの対日占領が類例を見ないほど「決定的な文明攪乱効果を発揮」することになつたとの指摘は、我々の眼前の危機の「起源」を探る上で、有益な手がかりとなるはずだ。
天皇をめぐる「日本の国家と文明の双方の『結節』という決定的存在」「平時は水面下に身を沈めているが、国家または文明の危機がいよいよ本格化し、そのユニークな役割がどうしても必要となったときに、急に浮上する」などの言及も、示唆に富む。
かくて、本書は文明史的洞察の上に立つて、未来へ向けた日本再生の方向性と、日本の底流には危機を乗り越える「文明力」が潜んでゐることを教へてくれる。それが本書の最大の価値だらう。(四五五頁引用歌に「たがいなば」となってゐるのは「かなひなば」ではなからうか。蛇足ながら――) |