平成16年7月号(通巻45号)より
反日全体主義に彩られた中学校公民教科書
目に余る歴史の改竄や偽造の背景にエンゲルスの思想
大月市立短期大学教授 小山常実
 この一年余り、筆者は、昭和20年代以来の中学校公民教科書を検討し続けている。その中で分かったことは、扶桑社を除く現行公民教科書は、歴史教科書以上に反日的で、かつ全体主義的なものであるということである。以下、特に気になった五点の特徴について述べていきたい。

 尚、本稿では、東京書籍は東書、大阪書籍は大書、教育出版は教出、日本書籍は日書、日本文教出版は日文、清水書院は清水、帝国書院は帝国と略記した。

(1) ルソー思想とフランス革命を理想とする
 現行中学校公民教科書の第一の特徴は、西洋政治史または政治思想史を全体主義的に改竄していることである。

 昭和20年代以来の公民教科書は、英国・米国・フランス三カ国の政治史を振り返り、思想家としてはロック、ルソー、モンテスキューの三者を挙げて、それぞれ、人権、国民主権または人民主権、権力分立の三原理を説明する形をとってきた。ところが、現行公民教科書を見ると、英国政治史と、モンテスキュー及び権力分立を軽視または無視している。第一に、政治思想史の個所で、帝国と大書はロックとルソーにふれながら、モンテスキューについて記していない。第二に、日書、東書、教出、清水、大書の五社もの教科書は、英国政治史にふれていない。そのうち大書以外の四社は、ロック等三者の思想を平等に紹介しながらも、専らフランス革命を中心に民主主義または人権の歴史をたどるようになる。

 たとえば、日書は、「第3章 人権を守り育てる」の「1.人間の尊重と日本国憲法の原則」という節の中で、「人権思想とその発展」の大見出しの下、ロック等三者の思想を平等に展開しながらも、「市民革命と憲法」の小見出し下、次のように述べている(傍線部は引用者、以下同)。

 「封建社会を倒した市民革命は、人権思想家たちの思想を人権宣言や憲法の中に生かした。ルソーの考えにしたがって、国民が主権者であることが宣言され、権力分立の制度も取り入れられた。一方、たとえ民主的な権力であっても侵害してはならない人権が、憲法の中に保障された。上に示した、フランス革命の『人権宣言』をみると、こうした考えがもりこまれているのがわかる。
こうして、近代の憲法には、共通して、国民主権と人権という二つの柱が書き込まれた」(83頁)

 右(上)のように、日書は、前半では国民主権、権力分立、人権の三者を市民革命の特徴として取り上げながら、後半では権力分立を捨て去っている。国民主権は必ずしも近代憲法に共通したものではないが、権力分立は、人権尊重と共に近代憲法に必ず存在するものである。にもかかわらず、権力分立を捨て去っていることに注目されたい。

 このように日書、東書、教出、清水の四社はロック等の思想を平等に扱いながらも、政治史の上では権力分立を無視し、人民主権と人権思想が活躍したフランス革命を重視する。結局、総じて公民教科書は、平等主義的、全体主義的に西洋政治史及び政治思想史を改竄してしまうのである。

(2) 国家論の不在
 第二の特徴は国家の軽視である。教科書の目次を見ると、七社のうち、日書、教出、清水、日文の四社には、「国家」という言葉が登場しない。また、七社とも国家の定義を行わないし、清水以外の六社は、国内政治を説明する箇所では国家について叙述しない。あくまで国際社会の箇所で、「主権国家」の小見出し下、「主権は、ある国が他国に支配されたり、干渉されたりしない権利(内政不干渉の原則)や、他の国々と対等である権利(主権平等の原則)からなっています」(東書、144頁)と記す程度である。

 右(上)のように「主権国家」といいながら、公民教科書は、北方領土問題も淡々と二行程度でふれるだけであり、東書と帝国を除けば、ソ連・ロシアの不当性を決して書かない。しかも、尖閣列島問題や竹島問題については、全七社が全く記さない。これは、教科書の伝統的な態度である。教科書は、「主権国家」と言いながら、領土問題について何とも解せない態度を取りつづけてきたのである。

(3) 宗教教育の否定と家族教育の軽視
 第三の特徴は、宗教教育の無視、家族教育の軽視である。昭和20年代の教科書は、神道、仏教、キリスト教、イスラム教について、基本的なことを詳しく記述していた。だが、昭和56〜58年度版以降には、全社が宗教について書かなくなり、今日に至っている。
家族に関しては、昭和53〜55年度版まではまだ一章を割いて説明していた。ところがその後、家族の扱いは小さくなり、現行教科書では3頁平均となっている。

(4) 自由権よりも平等権
 第四の特徴は、平等権をことさらに重視していることである。日本は自由主義、資本主義の国家であるはずである。自由主義、資本主義にとっては、自由権は、最も基本的かつ重要な人権である。だが、自由権に関する叙述は、2頁ほどで簡単に片付けられている。

 東書を例に見ていくと、自由権全体に2頁を割き、身体の自由に6行、思想や信仰の自由、表現の自由といった精神の自由に11行しか割いていない。資本主義の前提である経済活動の自由にも、9行程度しか割いていない。

 東書は「経済活動の自由」の小見出し下「近代憲法は、自由に移動し、自由に職業を選び、自分で働いて得た財産を保持することを人権として保障しました。現代でも、自由に職業を選び、働いて収入を得ることは、安定した生活を送るための基礎となります」(47頁)と記すのみである。

 移動の自由、職業選択の自由、財産権は、資本主義にとって重要で基本的な人権である。だが、こんなに簡単に済ませてしまっている。しかも、一番問題なことに、これらの経済的自由こそが個人を独立させ、精神の自由、身体の自由を基礎付けるものである、とは記さないのである。

 これに対して、平等権には多くの頁が割かれている。東書は八頁も割いて、部落差別問題、アイヌ民族差別問題、在日韓国・朝鮮人差別問題、エイズ患者への差別問題、女性差別問題、障害者問題などについて、熱心に叙述している。他社を見ると、日書、大書、清水が4頁、教出は6頁、帝国は8頁、日文に至っては10頁も叙述している。索引などを除いた全頁数は平均170頁ほどしかないから、平等権に関する叙述の多さは異常とも言うべきものである。

(5) 朝鮮人「強制連行」説の拡大
 第五の特徴は、朝鮮人「強制連行」説の存在である。「強制連行」を公民教科書で記すのは、平成2〜4年度版では一社、5〜8年度版では3社にすぎなかった。ところが現行教科書では、日書、東書、教出、帝国、日文の五社が、「強制連行」70万人説を前提にして、在日韓国・朝鮮人差別問題を説明している。

 例えば帝国は、「在日外国人への差別」の小見出しの下、「わが国でもっとも多い外国人を知っていますか。それは、多くが戦時中にわが国に強制連行されてきた在日韓国・朝鮮人です。わが国にいる外国人の約半数をしめていますが、戦前からあった朝鮮の人々に対する蔑視から、いまなお就職や結婚差別、いじめなどが残っています。しかも、日本国籍をもたないために、日本に永住していても参政権はありませんし、職種によっては公務員になれず、社会保障も十分受けられません」(112頁)と記している。

 帝国は、なんと、現在の在日韓国・朝鮮人は基本的に「強制連行」された人及びその子孫だというのである。だが、「強制連行」とされる人々は、基本的に帰国してしまっている。それゆえ、在日の差別問題を語る時に「強制連行」を持ち出すのは、明確に不当なのである。

 もちろん、就職に関して在日外国人に不利な扱いをすることは、差別である。しかし、地方レベルと国家レベルで区別せずに選挙権や公務員の問題を論ずることは間違いである。地方レベルの選挙権ならば、在日外国人に与えることは政策的に考えられることではある。だが、あくまで政策問題であり、差別問題ではない。そもそも、日本国家とは、日本国籍を有する者を構成員とする団体である。選挙権や公務員採用をめぐって、成員と非成員との間で区別が存在するのは当然のことなのである。したがって、在日外国人が公務員になる道を制限すること、彼らに選挙権を与えないことは、差別でも何でもないことである。

 差別でもないものを差別とし、歴史偽造をしてまでも在日韓国・朝鮮人差別問題を熱心に語る教科書であるが、北朝鮮による日本人拉致問題については、全七社がふれていない。既に平成9(1997)年以来、拉致問題は大きな社会問題となっていたはずである。公民教科書は、明らかに自国民を差別する反日思想で成り立っているのである。

背景にある共産主義思想
 以上、公民教科書は、第一にルソーとフランス革命の理想化、第二に国家論の不在、第三に宗教の否定と家族の軽視、第四に自由権軽視と平等権重視という特徴をもっている。第二、第三、第四の特徴を見ると、マルクス主義の古典である、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』が思い出される。公民教科書は、全体主義というよりも、ソフトな共産主義思想に影響されているのである。さらに教科書は、第五に、反日思想に基づく朝鮮人強制連行説の虚構を維持している。結局、現行公民教科書は、反日全体主義の教科書であると言えよう。