はじめに 本年二月上旬に出版された東 中野修 道、小林進、福永慎次郎著『南京事件「証拠写真」を検証する』の帯文として次の惹句が大きく書かれている。 「合成、演出、ひそかな転載、キャプション改竄。証拠として通用する写真は一枚もなかった」 実は、これが本書の結論である。 今回の検証作業では百四十三枚の「証拠写真」をとり上げ、その検証を進めた結果、いろいろなことが分かってきた。ここでは、そのいくつかを紹介したい。 国民党の戦争プロパガンダであった 南京事件とは、支那事変(日中戦争)の際、昭和十二年十二月十三日の南京陥落以後、六週間にわたって、日本軍による虐殺、暴行、強姦、掠奪、放火が生じたと主張されている事件の総称である。 南京陥落から半年後の昭和十三年七月に早くも、ティンパーリ編『戦争とは何か』と、その漢訳版である『外人目撃中の日軍暴行』が世界で初めて出版され、日本軍は残虐と喧伝された。近年、これらの著書と深く関係する中華民国時代の国民党中央宣伝部(以下、国民党宣伝部と略)の「極機密」文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(昭和十六年)の存在が確認され、次のことが明らかにされている。 第一に、『戦争とは何か』は、国民党宣伝部が工作し出版した「宣伝本」であった。第二に、国民党宣伝部の宣伝工作の対象に「南京大虐殺」はあげられていなかった。 すなわちこれは、国民党が南京で大虐殺が起きたという歴史認識を持っていなかったことを意味しているといえよう。 この宣伝工作の一環として、国民党宣伝部は戦争プロパガンダのために中国の「国際友人」に代弁してもらう動きをとる。『戦争とは何か』の編集は、国民党宣伝部顧問でもあったハロルド・ティンパーリ特派員(イギリスのマンチェスター・ガーディアン紙、オーストラリア人)であり、分担執筆したマイナー・ベイツ師(南京大学教授で宣教師、米人)は国民政府の顧問であった。またジョージ・フィッチ師(南京YMCA勤務、米人)も分担執筆したが、その妻は蒋介石夫人の親友であった。 また、国民党宣伝部が『戦争とは何か』やルイス・スマイス編『南京地区における戦争被害』(昭和十三年)の出版のためにお金を出していることも、国民党宣伝部国際宣伝処処長だった曽虚白の『曽虚白自伝』(昭和六三年)によりすでに明らかになっている。 南京事件「証拠写真」の源流 これまで南京虐殺があったとする書籍が数多く出されている。そこには登場頻度の高い「写真」が添えられている場合が多い。それが写真(1)や写真(2)などである。 写真(1) 『日寇暴行実録』に掲載の写真。写真に写る人物の影の方向が一致しない。斬首する人物する人物の足の出し方が反対である。合成写真であろう。 写真 (2) 初出は『日寇暴行実録』この写真は人物の遠近感があわず、誰の影なのか不明なものもあり、合成写真であろう。 『中国の旅』の写真説明は、「穴を自分で掘らせ、生き埋めにしている日本軍(新聞司提供)」となっている。 平成十四年初春、東中野修道亜細亜大学教授を代表とする南京事件研究会において、これらの「写真」をはじめとする世に流布している写真が「南京事件の証拠といえるのか」、「二十万、三十万人虐殺を決定づける写真であるのか」などの疑問が出され、東中野教授を中心とする写真研究分科会の検証作業がスタートした。 戦前・戦後の著書、新聞、雑誌等を含め可能な限り収集し、国内はもとより海外の資料まで調査し、約三年間で延べ三万枚以上の写真に目を通した。 ところで、前述の英文の『戦争とは何か』に写真は掲載されていないが、昭和十三年七月に出された漢訳版の国民政府軍事委員会政治部編『日寇暴行実録』(現在はスタンフォード大学フーバー研究所所蔵)には写真が三十九枚、同じく漢訳版のティンパーリ編『外人目撃中の日軍暴行』(香港版も存在するが、漢口版を対象とした)には三十一枚が掲載され、合計七十枚であった。この二冊の本に共通の写真七枚を差し引くと、源流の写真は六十三枚であった。 昭和十二年から十三年(この間を第一期と呼称)にかけて登場した六十三枚の写真は次のような性格のものであった。 一、撮影者、撮影時期、撮影場所の不明な写真がほとんどである。判明している写真は十点ほどである。 二、元本の写真の説明を改竄して転載した写真や演出と思われる写真がある。 三、日本軍が南京を占領した冬という季節にそぐわない写真が多い。場所も南京かどうか明確でない。 四、大量虐殺を示す写真は一枚もない。十数体の写真が二枚あるだけで、ほとんどが一体か二体の写真で、子供や女性の写真が目立つ。 本多勝一氏が『中国の旅』に追加した「証拠写真」 戦後、東京裁判・南京裁判の行われたころに出版された『中国抗戦画史』(昭和二十二年)に「南京大屠殺」「死人三十万」と題して写真が掲載されており、前述の写真六十三枚のうち写真(1)や写真(2)など七枚が同じであった。しかし、昭和四十六年までは南京事件に関連した目立った動きはほとんどない(この時期を第二期と呼称)。 日本と中国の国交が回復した昭和四十七年(これ以降約十年間を第三期と呼称)に、本多勝一氏の著書『中国の旅』と『中国の日本軍』が日本で出版され、南京事件の「証拠写真」と称する写真が数多く掲載された。これまで「南京事件」関係の書籍は国外の出版物が主体であったが、日本国内でも出版される状況が現出する。『中国の旅』はその嚆矢であった。 ここでは、第一期の源流写真六十三枚のなかの写真(3)と写真(5)をとり上げ、「キャプション改竄」の例を紹介する。 写真(3) 『日寇暴行実録』より。『本多勝一全集14』などにも掲載された写真。 写真(4) 『朝日版支那事変画報』(昭和12年12月5日号、裏表紙)、裏表紙から日本軍は代価を払って鶏を買ったことがわかる。 この写真(3)の元写真である写真(4)は、南京陥落の十二月十三日以前に発行された『朝日版支那事変画報』(昭和十二年十二月五日号)にすでに出ていたものである。その説明には「支那民家で買ひ込んだ鶏を首にぶらさげて前進する兵士(十月二十九日京漢線豊楽鎮にて小川特派員撮影)」とある。 ところが、平成七年発行の『本多勝一全集14』(「中国の旅」編)の中で、この写真(3)を「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として略奪された」と説明している。なんと日本軍が買い込んだものに対して支払いをしていた事実は無視され、改竄されていたのである。さらに、この写真(3)は、昭和四十七年発行の『中国の旅』には掲載されていなかったのであるが、本多氏は『中国の旅』発行の二十三年後、全集にこの写真を追加していたことが判明している。 写真(5) 『日寇暴行実録』に掲載の写真。初出は『アサヒグラフ』昭和12年11月10日号)。日本兵に獲られ農作業からかえる中国の農民たちの写真である。 『本多勝一全集14』では『婦女子を狩り集めて連れてゆく日本兵たち。『強姦や輪姦は7、8歳の幼女から、70歳を超えた老女にまでおよんだ』と説明されている」と記述している。 また、本多氏は写真(5)も『本多勝一全集14』に新たに追加していた。そこには「婦女子を狩り集めて連れてゆく日本兵たち。『強姦や輪姦は7、8歳の幼女から、70歳を超えた老女にまでおよんだ』と説明されている」と記述している。 この写真(5)は、笠原十九司氏も自著『南京事件』に掲載し、「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち、(後略)」と説明していた。 その後、この写真は『アサヒグラフ』(昭和十二年十一月十日号)に掲載されていたことが秦郁彦氏により付き止められた。写真の説明には「我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群」とある。 本多氏は十分な検証を行うこともなく『本多勝一全集14』の「中国の旅」編に写真を追加していたのである。 新たに投入された「証拠写真」 昭和五十七年、歴史教科書における「侵略→進出」の書き換えの有無をめぐって新聞の誤報事件が外交問題化する(教科書誤報事件の前年以降十四年間を第四期と呼称)。この第四期に南京大虐殺を主張する書籍が次々と出てくる。 南京裁判から四十一年を経過した昭和六十三年に出版された洞富雄、藤原 彰 、本多勝一著『南京大虐殺の現場へ』の中に「南京裁判」に提出したという「十六枚の写真帳」(仮称)の話が出てくる。その概要は以下の通りである。 「一九三七年〜三九年のいつだったか確定することはできないが、日本軍の兵隊が写真の焼付を依頼した。南京の写真館の店員Aさんは依頼された写真を一セット余分に焼き自分のものにした。これを一九四一年に拾ったBさんは戦後まで隠し続け南京裁判に提出した。この写真は谷寿夫の戦犯裁判の証拠とされた」 写真(6) 写真の取得者は昭和22年の南京裁判まで隠し続けたと記されているが、昭和13年1月10日号の『ライフ』誌に載っていた。 『南京大虐殺の現場へ』には、十六枚中の七枚の写真が掲載され、写真(2)(前出)と写真(6)がそのうちの二枚である。驚いたことに、写真(2)は南京裁判の七年前の昭和十三年七月発行の『日寇暴行実録』に、写真(6)は昭和十三年一月十日号の『ライフ』誌にすでに掲載されていたものだった。 季節を証明した写真の影 「十六枚の写真帳」には写真(7)も掲載されていた。一見しただけで、兵士の薄着姿から南京陥落の十二月中旬ではないと言われてきたのであるが、決め手がなかった。ところが、写真(7)の背後の観衆と樹木が類似した写真(8)の中に、人物の右足の下に影が明瞭にできていることを見つけた。踵から影の端を結ぶ線と地面のなす角度θは七八度と計測され、南京での冬の南中(ほぼ正午)時の理論角度から南京陥落の十二月ではありえないことが判明し、季節を五、六月ごろと特定できたのである(図1)。 写真(7) 『南京大虐殺の現場へ』221頁より。 この写真は昭和22年の東京裁判まで隠されたとされる。背景の類似した写真が、昭和13年7月発行の漢訳版『外人目撃中の日軍暴行』に載っていた。 写真(8) 史詠・尹集鈞著 『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』119頁に掲載。 角度θが78度であり、太陽の位置は高いところにある。5、6月であろう。 (図1)影の長さLと高さHの関係 前述した国民党宣伝部の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』の中に秘密報告があった。ここにいう「本処」とは、国民党の国際宣伝処のことである。 「本処の撮影事業の動機は、一九三八年春、本処の指導する国際新聞撮影社が、すべての撮影機材や、その他の材料、取材したフィルム数千枚を、全て中央通信社撮影部に渡し、並びに毎月手当てを出して、力を結集して、撮影効能の展開を期したことから始まる」 すなわち、プロパガンダ写真の本格的活動は昭和十三年春だった。そのためであろうか、半袖や薄着姿の人物が目立ち季節観が合わない写真が多い。冬の十二月にはほとんどの市民が着ていたであろう「厚手の支那服」の死体写真がほとんどないことも納得できる。 むすび 南京陥落後の六週間で二十万、三十万人虐殺というからには、当然、この大虐殺を証明する写真が存在して不思議ではない。しかし、二十万、三十万人の虐殺を裏付ける写真は皆無であった。強姦、放火、略奪をしたという「証拠写真」も一枚もなかった。いずれにしても、証拠写真として通用する写真はなかったのである。