日韓の歴史共同研究に「成果」はあったのか
教科書が悪くなる理由を、共同研究が教えてくれた |
| 明星大学戦後教育史研究センター 勝岡 寛次 |
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“結論先にありき”だった韓国側
三年間にわたった日韓歴史共同研究委員会の報告書が、日韓文化交流基金のホームページで公開された。
この委員会は、四年前の日韓首脳会談の合意に基づき、平成十四年三月に設けられたものだが、日韓の歴史の「共同研究」には、筆者は当初から懐疑的だった。
拙著『韓国と歴史は共有できない』(小学館文庫)、にその理由は詳述したが、要するに言論の自由が十分に担保されていない(韓国では「反日史観」以外の歴史認識は許されず、「親日的」発言をする自由は全くない)状況で、韓国人学者と「共同研究」しても、得るところは何もないばかりか、下手に歴史認識で「一致」でもしようものなら、韓国製「反日史観」を共同研究の「成果」として、逆に押し付けられる恐れさえなしとはしない、という点にあった。
筆者のこうした危惧は、半ばは当り、半ばは外れた。韓国側の態度は、ほぼ予想された通りだった。「韓国の研究者は『結論先にありき』で、しかもきわめて政治的で、研究者としては『水準が低い』との印象を受けた」(六月十一日付産経新聞)という日本側委員の述懐が、このことを裏打ちしている。一方、日本側の姿勢は、韓国側の史観に安易に与することなく、実証的な姿勢を貫いたと大筋では言えるだろう。そのことは、報告書が「両論併記」になっていることからも、共同研究の結果に韓国側は大いに不満らしいことからも窺えた。これで筆者も、少しは安堵した。
それにしても、六月初旬に公表された報告書は、全部で二千頁近い膨大なものである。これを読み通すだけでも容易なことではないが、日韓の間で常に争点となる問題だけでも、報告書の中身を知っておくことは無駄ではないだろう。
委員会は三つの分科会構成(第一分科=古代、第二分科=中近世、第三分科=近現代)になっているので、以下、各分科会から一つずつ、テーマを絞って紹介してみたい。
「任那」問題にみるすれ違い
古代の分科会は、日本側三名(石井正敏・佐藤信・浜田耕策)、韓国側三名(金泰植・金鉉球・盧重国)の委員構成である。共同研究のテーマは、「広開土王陵碑と倭」「五世紀の日韓関係」「六世紀加耶をめぐる三国と倭の関係」の三つ。古代の日韓関係といえば、何といっても「任那」(加耶)の存在をどう見るかが最大の焦点だ。
韓国側委員(金泰植)は「現在、少なくとも加耶地域の考古学的成果によると、加耶地域を日本が長い間占領したとか支配したとかいう証拠は全く現れていません」(第一分科報告書三五二頁)として、任那に対する日本の影響を全否定しようとした。これに対して日本側委員(佐藤信)は、「『日本書紀』そのままに朝鮮半島南部経営説のような見解を持つ人は、現在はあまりいないのではないか…。ただし当時の倭国と加耶との間には、経営・支配・占領・勢力・影響力・軍事的支配関係など多様なレベルの実態としての関係があったことは間違いではなく、深い関係があった…。…その中で『これが正しい』という結論は残念ながら今の日本の学界には無い状況です」(三五五頁)。要するに、関係のレベルには諸説あるが、濃厚な関係があったことは事実だというのが、日本側の一貫した主張であった。
さらに踏み込んで、次のように主張した日本側委員もいた。「百済や加耶あるいは倭の間には、侵略とか援軍とか同盟とかいった今日的な国際関係の概念とも違う、運命共同体のような何か別の関係があったのではないか」(三三四頁)。筆者もそう思う。任那に対する古代日本の強いこだわりや、国家の総力を挙げて百済救援戦争に赴いたところなどを見ると、古代日本と任那・百済の間には、現代では失われてしまった強い紐帯のようなものを感じるからである。
だが、この「運命共同体」という表現も、韓国側委員の一人からは「強い拒否の声が出た」(三七四頁)そうで、双方の主張は最後まで平行線を辿った。
結論としては、金鉉球委員の次の言に尽きていよう。「最大の争点といえる恃C那問題掾Aすなわち韓半島南部で活躍したとされている恫`揩フ性格についても相反する見解の違いを少しも狭めることができなかった。むしろ、見解の違いが余りにも大きく強固であった点に、双方が共に驚いたのではないかと思う」(全体会議篇、四八〜四九頁)
日本側も一緒になって朝鮮「侵略」を大合唱
中近世の分科会も、日本側三名(田代和生・吉田光男・六反田豊)、韓国側三名(孫承・鄭求福・趙)で構成されている。共同研究のテーマは、「偽使」「文禄・慶長の役(壬辰倭乱)」「朝鮮通信使」の三つだが、ここでは朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の名称問題に絞って紹介したい。
朝鮮出兵を「朝鮮侵略」と書くのが、近年の教科書では一種の流行現象になっているのだが、学問の世界でもそうだということを、筆者は寡聞にして知らなかった。日本側の学説史を整理したこの部会の報告によれば、「最近では、北島万次が『朝鮮侵略』という呼び方を使い、これが一般化している」(第二分科報告書、二八頁)のだそうだ。この報告書も「豊臣政権による朝鮮侵略」(二七頁)などと平気で書いているが、この感覚はちょっと異常である。「侵略」という、イデオロギー性を濃厚に帯びた現代の政治用語を、五百年も前の秀吉の朝鮮出兵に、そのまま当てはめるということ自体が異常だが、そうした態度の背景には、どうやら日本人特有の隣国への贖罪意識も働いているらしい。
結果として、この一点では、日韓双方の歴史認識は期せずして一致した。韓国側委員(鄭求福)からは、「現在大部分の日本の高等学校用歴史教科書では、壬辰倭乱については北島万次の研究成果が大きく反映されており、韓日間で問題となる点はない」(四八九頁)、恂L臣秀吉の朝鮮侵略揩ニいう客観的な用語を用いる傾向があらわれてきている」(四九八頁)といった怩ィ褒め揩フ言葉さえ飛び出した。
ところで、右の鄭委員によれば、「韓日歴史研究共同委員会では恍ゥ鮮役揩糺恊ェ伐暾恟o兵揩ニいった用語は使用してはならない」のだそうだ。「出兵という用語は朝鮮を日本国内と把握していた日帝時の汚染された用語だからである」(四九九頁)とおっしゃる。「出兵」は「汚染された用語」で、「侵略」なら「客観的な用語」なのだそうだ。
冗談ではない。「出兵」はニュートラルな表現である。「侵略」こそ、秀吉の行動を現代の価値観で裁かんがための、「汚染された用語」ではないか。
因みに、朝鮮出兵ならぬ「朝鮮侵略」を日本の学界に定着させた恍」本人揩轤オい北島は、研究協力者としてこの分科の討論にも参加し、「新しい歴史教科書をつくる会」について次のように語っている。「特定のグループだけがやっていて、我々、みんな反対しているんです。ですから、私も教科書を書いています。で、もう一生懸命良心を持って書いているんです。あの人たちはもう、批判されても書き続けています」(五一五頁)。
「朝鮮出兵」を否定して、「朝鮮侵略」と教科書に書くことは、北島某のような執筆者にとっては、「もう一生懸命良心を持って書いている」ことなのだ。どうりで、これでは教科書は悪くなるはずだ。教科書からどうして「朝鮮出兵」が消え、「朝鮮侵略」一色になってしまったのか、はしなくも日韓の共同研究が教えてくれた。
日韓併合は「合法」で一歩も譲らず
近現代は日本側四名(小此木政夫・原田環・古田博司・森山茂徳)、韓国側四名(鄭在貞・李萬烈・金度亨・金聖甫)、テーマは十三にも上るが、ここでは一番問題となる日韓併合の合法・非合法の問題を取り上げる。
この問題では、日本側と韓国側は真向から対立した。日本側研究協力者の坂元茂樹は、「少なくとも、国際法の立場からは、日韓の旧条約、とりわけ無効が声高に主張されている第2次日韓協約や日韓併合条約も、有効に締結された条約であるとの結論にならざるを得ない」(第三分科報告書、二二頁)と主張した。
これに対する韓国側委員(金度亨)の反論は、「帝国主義の侵略と植民支配という歴史的事実は単純な国際法上の法理論争ではなく、より巨視的な次元からアプローチしなければならない」「国際法の法理としてのみアプローチするようになれば、日本の不法な侵略は当然隠蔽されてしまう」(二三〜二四頁)といったものだった。
国際法の議論をすると、自分たちが不利になることは、彼らにも解っているらしい。だが、何が何でも「不法」と言い張る韓国側との間で、双方の議論は全く噛み合わない。筆者の印象は、“不毛”の一言だ。
日韓・日中より日台の共同研究が先決だ!
以上、極めて不十分ながら、共同研究の怩ウわり揩紹介してきたが、筆者には今一つ大きな不満が残る。
というのは、拙著でも指摘しておいた、日韓の歴史共同研究をするならどうしても取り上げて欲しかったテーマが、今回は何故か外されている。その一つは、竹島問題である。慰安婦問題もそうだ。韓国側委員(趙)によれば、日本側は「敏感な問題は後回しにするよう求め」「半年間の論争の末、独島(竹島)や慰安婦問題は除外された」(六月十一日付朝日新聞)というが、事実とすれば遺憾である。
六月の日韓首脳会談で合意を見た、第二次共同研究として新設予定の「教科書委員会」に、今後、議論の焦点は移っていくだろうが、一方では四月の「反日デモ」に懲りて、日中間でも「共同研究」を始める話が持ち上がっている。
悪いことは言わない。止した方がいい。韓国は未だしも、言論の自由の全くない国と「共同研究」しても、日本にとってプラスは何もない。韓国や中国より、共同研究をするなら台湾だ。これを誰も言わないが、日台は今こそ連携して、中韓の「反日包囲網」に共同対処すべきなのである。
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