平成18年1月号(通巻54号)より
今の中学国語教科書では国語力はつかない
古典と近代以降の名文を多く切り捨てた国語教育を克服するために
東京都教師会会長 佐藤健二
  国語は日本人の命

  人は言語操作能力を獲得することにより他の動物を超えることができた。それを理性ないし精神と称し、外に向かっては他者との高度なコミュニケーションを可能にし、また、内に向かっては深い内省力となって人間性を深めてきた。つまり言語操作能力は、動物としてのヒトを、理性をもった人間へと変容させる最重要の機能なのである。

  従って、どこの国でも言語教育が教育の根本であり、幼児教育から高等教育まで、すべて言語の獲得のためにあると言っても過言ではない。

  いや、いわゆる教育機関を離れても、我々は生きている限り何かしら新たな言語を学び続けるのである。時代は、常にその時代に応じた言語を生み続ける。言葉は父祖の血脈を承け、子孫へと伝えられる。その本質は人間の命と同義である。

  さて、言語とは今述べたように人間の本質を形成するものであるが、では国語とは何か。前述の伝でいくと、それは〈日本人の〉命である。それが失われると、日本人でなくなってしまうのである。

  世界には何千という言語(民族言語)が存在する。しかし、国語と民族言語が重なっている国はそれほど多くない。それは、多くの国が多民族国家であることを思えばすぐに諒解されるところであろう。我が国は、悠久の昔から伝えられている大和言葉という民族言語を国語の基底に有している稀な国ということができる。

  国語は文字通り「国家の言語」である。統一された国家という統治形態を前提として形成されたものである。我が国の国語も、近代国民国家を形成した明治政府により人為的に造られたものである。

  しかし今述べたように、その基底には太古以来の大和言葉の伝統が存在しており、その上に多くの漢語と西洋語、とりわけ幕末から明治になって盛んに翻訳された欧米の翻訳語が漢語の体裁をとって加わり、豊かな表現能力を有しているのである。

  それは、江戸時代まで各地で自然に語られ使われてきた話し言葉とは異質なものである。あくまで近代日本人を形成し育成するために、学校という教育の場から発信された「教科としての国語」がその原点だった。発音の仕方も綴り方も読み方も、みな明治の学校制度とともに全国に普及していったのである。

  国語教育は、読み書きの基本を身につける初等教育と、そこでの知識・体験を基に、より高度な理解と表現を求める中等教育とでは当然その質は異なっている。しかし、いずれにも共通しているのは、目的をもって作られた国語の基本は話し言葉にあるのではなく、書き言葉にあるということである。規範としての国語、それがいわゆる「国語」なのである。

  言語の本質は、話し言葉にある。しかし、「国語」の本質は書き言葉にある。近代以降の話し言葉は、「です・ます」調や「だ・である」調にしても、みな小説家や学者の努力により書き言葉を媒介として全国に流布していったのである。

  中学国語の現在とその問題点

  現在の中学校学習指導要領は、平成十年に制定され平成十四年四月から施行されたものである。この指導要領の内容は、所謂「ゆとり教育」完成版としての学校週五日制に合わせたもので、国語の指導内容においては、従来「A表現」・「B理解」・「言語事項」の二領域一事項から、「A話すこと・聞くこと」・「B書くこと」・「C読むこと」及び「言語事項」の三領域一事項に変わった点が大きな意味をもつ。

  従来の領域は、「表現」という括りで「書くこと」と「話すこと」という書き言葉と話し言葉のそれぞれの表現機能を統一的に捉えていた。「理解」も同様である。

  しかし今回の改訂では、話し言葉と書き言葉にまず分類した上で、そこに「話すこと」以下、言語の四機能を配置したのである。とりわけ第一に「A話すこと・聞くこと」といった話し言葉をもってきたことの意味は重大である。この変更を後押しするかのように、「目標」の一節に新たに「伝え合う力を高める」という項目が付け加えられた。

  話し言葉の指導を強化しようという狙いにはそれなりの理由がある。確かに時代は国境を越えた人的交流が盛んになり、従来のように日本人同士で何となく意思が通じ合うといったレベルの言語能力では立ちいかなくなりつつある。日本人同士でも学問やビジネスの世界では、合理的で明確な言説が求められる。

  その意味では「伝え合う力を高める」ことは必要なことであるし、「話すこと・聞くこと」の重要性を否定する謂れはない。しかし、ここに含まれる危うさは、「話すこと・聞くこと」という日常だれでも行っている行為が、そのまま学校という教えの場にまで持ち込まれる危うさである。

  我々が国語という教科で教えなければならないことは、〈正しく〉「話すこと」であり、〈正しく〉「聞くこと」である。家庭でテレビを前に、お笑いタレントの話を笑いながら聞いたり、仲間とくだけた調子でばか話をするのとは違う。ある一定の時間、意識を集中させて授業や講演に耳を傾け、その内容を正しく理解すること、自分の考えを大勢を前にして正しく、時には心情に訴えるように伝えること、これはなかなか難しいことである。

  何が難しいかというと、日常を超えているからである。語彙、言い回し、言葉の抑揚、いずれも相手によって、またテーマによって適切に選択し、表現する必要がある。この、語彙や表現が何によって培われるかというと、書き言葉、端的に言うと優れた文学作品(韻文を含む)や随筆・評論によるのである。

  特に中等教育においては、個の自覚と共に社会を客観的に見る目が育ち始める。抽象的な議論を始めるときである。そこで必要とされる語彙や言い回しは、日常的な話し言葉の枠を超えている。また人間関係も、恋愛感情など内面に深く関わる表現を必要とする場面に直面するようになる。これらの語彙や言い回しは、優れた文学作品や評論により学び取られるものなのである。

  文字言語の習得こそが国語の要

  現在の学習指導要領では、ことさらに文学作品の扱いを抑えた内容になっている。以前からその傾向はあったが、文学作品の解釈よりは、正確なコミュニケーション能力をしっかり身につけさせろという要請が一部の実業界や学者グループから強く出されていた。一種の言語機能論に立脚した要請である。

  しかし、我が国の国語の特殊性は、『古事記』や『万葉集』以来の極めて長い文字言語の歴史の上に立脚するものであり、前述したように国家としての言語的統一性は、この多くの文字言語を共有財産とするところから出発している。日常の会話とは一線を画した公の場における発話能力は、文字言語の獲得により形成されるのである。

  国語に対するこの根本的哲学が、学習指導要領には全く見られない。極めて効率主義的な言語道具論に立脚しているのである。殊に、五日制による授業時数の減少により大幅に削減された古典や詩歌や漱石・チ外といった古典的名作は、日本人としての情操を涵養する上で極めて重要なのである。しかし、言語道具論に立脚する機能主義者は、文学作品による心情理解の指導を著しく嫌う。極端に言うと、思うように読めばよいというのである。

  この考え方は、自己の心情をまだ十分に客観的に把握し、表現できない子供に、自己中心的な理解(読み)を許容するものであり、他者と豊かなコミュニケーションをする上で欠かせない他者の思いを察し、共感するという能力の育成を阻む危険な思想である。

  それと相俟って重要なことは、漢字力の強化である。漢字の造形性が幼児からの習得に適うものであることは、石井式漢字教育があまたの実践活動により証明しているところである。まず、学年配当表はすみやかに廃止すべきである。教育漢字、常用漢字の指定だけで十分である。目標は、中学を卒業するまでに常用漢字約二千字を自由に読み書きできるようにすることである。そのためには振り仮名(ルビ)を多用し、「おや子」といった交ぜ書きをなくし、漢字の入門書である『千字文』冒頭の「天地」が書けるようになるまで二年もかかるなどという滑稽な事態から早く脱却することである。

  漢字力の増強のためには、中学一年生から古文と抱き合わせで漢文を教えることである。私の指導体験から言っても、中学の低学年ほど面白がって返り点などを身につけることができる。子供の力を侮る事なかれ。かつての漢文の素読を復活させればよい。昔は六歳から始めていたのである。漢字は表現を簡潔にし、また抽象的思考を支えるものである。漢字力を強化することにより、話し言葉にもメリハリがつき、説得力に富んだ会話能力を身につけることができるのである。

  近年の国会議員の無様な演説を見よ。優れた文章語で鍛えられたよき弁論の伝統を失った演説は、自らの語るべき言葉を持つことなく単なる官僚の代弁者に成り下がってしまったではないか。

  なぜ言葉に力がなくなったのか。日常次元の話し言葉に拘泥し、規範となるべき文字言語、とりわけ古典と近代以降の名文を多く切り捨てたことによるのである。

  新たな国語教科書が求められる所以

  新たな中学国語の教科書に期待したいことは、今まで述べてきたことを踏まえ、以下の四点にまとめることができる。

一、現代文・古文・漢文を併行して教えること。
二、漢字教育を見直すこと。特に「学年配当表」は廃止すること。
三、古典には万葉・古今・新古今など古今の名歌を積極的に採用し、暗唱教材とすること。
四、現代文は、生徒におもねることなく、近代の名文を取り上げること。

  漱石の『坊っちゃん』、チ外の『ぢいさんばあさん』、蘆花の『相模灘の落日』、独歩の『武蔵野』や『源叔父』、直哉の『小僧の神様』や『清兵衛と瓢』、龍之介の『蜘蛛の糸』や『杜子春』『蜜柑』、いくらでもある。

  最後にもう一度、繰り返し言っておきたい。中学国語は我が国の書き言葉の歴史・伝統に立脚し、幼児期から育ててきた日本人としての感性や情操にさらに言語面から磨きをかけ、漢字能力を高め、抽象的言語を正確に使う基礎力を育成し、豊かなコミュニケーション能力を形成するその規範を提供し、習得させることを目的とするのである。
現在の国語教科書は、国語という教科のもつ不易であるはずの歴史的使命を忘れて、ひたすら流行に身をすり寄せながら編集されている。これでは、我が国の国語力はますます低下していくであろう。新たな国語教科書が求められる所以である。

今どきの国語教科書 ※(編集部)
ジェンダーフリーに「科学」の称号を与える国語教科書がある。教育出版の中学校1年用国語教科書(現行版)に「科学の目」という章があり、そこにフェニミズム論者・青木やよひ氏のエッセイ「ちょっと変じゃない?」が登場する。「どうして日本人の大人は、『女らしさ・男らしさ』にあんなにこだわるんだろう?だいたいその正体も確かめずに人におしつけるなんて、おかしいよね」
また、同じ「科学の目」には、中学生同士で敬称についての「話し合い」を設定した「人の呼び方を考える」という文章もある。
平野 ・・・・・・わたしは、呼び捨てがいいと思います。・・・・・・男女を『君』と『さん』で呼び分けるということは、差別につながる可能性があると思います」、「山川、 差別という視点からも男女で呼び方を使い分けるのはおかしいと思います。・・・・・・これからは、男女とも統一して『さん』をつけて呼ぶようにしましょう」。
教科書による常識の破壊は、今や社会科かに劣らず国語教科書も深刻である。