平成18年11月号(通巻59号)より
「十五年戦争」史観への疑問
「もうひとつの南京事件」から見えてくる今に続く道筋
日本近現代史研究家 田中秀雄

中国はいつも被害者だったのか
 昭和の歴史を語るときによく使われる「十五年戦争」という言葉がある。昭和六年の満洲事変から始まり、支那事変、日米開戦と続き、そして昭和二十年の敗戦までのおよそ十五年問続いた戦争をいうのであり、それはそのまま日本の侵略とそのあげくの敗北という歴史観につながっている。
そうすると、その後に来るいわゆる戦犯を裁く「東京裁判」は、その問の日本の行動への懲罰の儀式ということになってくるのである。
  しかし、こういう.歴史の見方は正しいのであろうか。日木は突如として満洲箏変を起こし、中国に噛み付いたのであろうか。あるいは、それまでに我慢に我慢を重ねたあげくに、遂においしい餌である満洲を分捕るという挙に出たのであろうか。
  どちらも私には正しいと思えない。こうした見方には、中国がいつも弱い立場にあり、ひ弱な花であり、中国人の生活のみじめさはこうした日本の侵略によっているという確固とした観点がある。だが、中国はいつも被害者だったのだろうか。日本人が被害者だったことはなかったのか。

昭和二年の「南京事件」
 実は満洲事変は昭和史という観点から見るとき、その淵源を昭和二年の南京享件に見ることができると私は思うものである。つまり、十五年戦争という見方は間違っているのである。このことを私が最近翻刻した『もうひとつの南京事件』(芙蓉書房出版)を素材にして考察してみよう。
  この事件は昭和二年の蒋介石率いる国民党軍による北伐の過程で、国民党に人り込んだ共産主義者によって起こされた外国人虐殺、暴行、掠奪事件である。
  この事件では欧米人が多く被害を受けたが、日本人もそうである。それゆえに『もうひとつの南京事件』は、この事件の日本人被害者が自分たちでその体験をまとめたという点で非常に貴重な記録(昭和二年八月刊)なのであり、そこに出てくる女性への暴行、人体の損壊、掠奪の実態はすさまじいとしか言いようがない。毛沢束を指導者とする共産主義者の大義名分は、帝国主義の打破であり、そのためには外国人に何をしても許されるとの号令がかかったのである。元々ギャングかごろつきの集まりが支那兵である。そうした連中に何をしてもよいとのお墨付きを与えるなら、どんなことが起きても.不思議ではない。
  この事件でわが国は無抵抗主義を貫いた。幣原外交である。南京城に向かい砲撃をした英米軍と違い、海軍陸戦隊は武器も持たずに領"館にいた欧米と違い、日本人の被害に死者がなかったのはその無抵抗のせいであった。しかし領事館に乱入され、全裸にされる同胞女性を見て何もできない陸戦隊員とはいったいなんであるのか?!実はこのときのイギリスは、居留民を守るために共同出兵をしようと日本に提案している。むろん幣原はそれを断った。

森恪(もりつとむ)の積極外交
 内政が原因で倒れたこの民政党内閣に代わって登場したのが田中義一内閣である(昭和二年四月)。外務大臣を兼ねる田中に代わる実質的な外務大臣は森格政務次官であった。内閣成立直後に彼は済南(山東省)出兵を行った(五月)。無論そこに住む居留民の安全のためである。南京事件の結果、退去令が出され、揚子江流域からは日本人は全員着の身着のまま財産を放り捨てて内地に引揚げざるを得なかった。同じことが済南でも起きるという懸念があったからである。
 森はそういうことを即座にやるタイプの人であった。それは彼が大正初期から三井物産の社員として中国に長く滞在し、ビジネスの観点からその土地も人もよく知っていたからである。政治家として立ったときからもその抱負として中中国問題の解決を自己に課していた。
 重要なことが『もうひとつの南京事件』に書かれてある。南京事件の被害者たちの代表が何度も森と会っていることである。それは、被害者救済のための陳情でもあるが、彼らこそが幣原軟弱外交を批判し、もっと積極的な対中外交を田中内閣に望んだという事実である。つまり、対中積極外交は彼ら国民の声であったのだ。
 『もうひとつの南京事件』には、さらに重要なことが書いてある。被害者たちが陳情の過程で、政府の「東方会議」の模様を聞いていることである。これは田中内閣の新しい対中国政策を討議するために、森が中心になって六月下旬から七月上旬にかけて開催したものである。ここにおいてはっきり決められたのは、中国の反日運動に関しては、外国人の生命財産を守るべき中国政府にその能力がない以上、居留民の生命財産を守るために断固たる措置をとるということである。おそらく南京事件の被害者たちの声が反映している。

済南事件と田中上奏文
  翌三年に再開された国民党軍の北伐において、日本は再び居留民保護のために山東出兵を行った。むろん森の施策である。しかし、その省都済南において北伐軍と日本軍が戦闘状態に陥った。その最中に日本人居留民がむごたらしく虐殺されてしまう(写真1)。これが済南事件である。


■写真1 昭和三年の済南事件で中国軍に虐殺された日本人男性の遺体。
下半身が裸にされ、 陰茎が切断されている。

 出兵そのものについては、アメリカなどは歓迎していた。白国民の保護がなされるという理由からであるが、衝突の結果、第三次出兵がなされるに及んで、アメリカは微妙に態度を変更していく。
 そこには中国の外交部長が王正廷というアメリカに留学した、多くの友人をアメリカに持つ外交官に代わっていたことが影響していると思われる。そしてこの王正廷外交部長時代に、「田中上奏文」問題が発生するのである。
 「支那を征服せんと欲せば、まず満蒙を征服せざるべからず、世界を征服せんと欲せば、まず支那を征服せざるべからず云々」という計画が日本にあるということをこの文書は披瀝している。作者は王梵生ともいわれ、内容の荒唐無稽さは既に指摘されていることで今は問題としないが、これが南京発行の雑誌に登場した昭和四年秋という時点を考えると、実に見事なタイミングであると感心せざるを得ない。つまり、日本の対中国積極外交転換にうまく乗っかり、南京事件によって喚起された英米の対中硬化姿勢を微妙にそらし、自己に同情させようという意図を持っているのである。
 翌年には中国で出版計画も持ち上がり、重光葵代理公使が王正廷外交部長に取締りを要請しても、まったく相手にされなかった。かえって昭和六年に満洲事変が起き、満洲国が作られると、この文書の予見性が世界に信じられるような事態となった。

自国民保護の目的としての満州事変
 しかし、満洲事変も実は関東軍の謀略によるものと解った今でも、これが自国民の生命財産を守るための戦闘行動であったことには間違いがない。事変前に起きた万宝山事件は日本国民である朝鮮人が迫害された事件であるが、これに激昂した朝鮮人たちが平壌で暴動を起こし、中国人百名以上が虐殺されてもいる。これは突然起きたことでなく、朝鮮人たちが恒常的に満洲で迫害を受け続けていたことは資料で証明できることである。日本人も満鉄沿線以外では危険この上なかった。それは『もうひとつの南京事件』で描かれた揚子江一帯全域での危険性と寸分違わない。これを守らないでよいというのだろうか。
 実はこの時期、森恪は野党時代であり、事変勃発直前の八月に満洲に渡り、関東軍首脳と会っている。そして石原莞爾にかなりの感銘を受けたということが判っている。自分の満蒙問題解決策と共通するものを石原に感じたのは間違いないだろう。森の考えは簡単に、言えば、秩序ある政治体制の確立であり、そこにおいてこそ満洲が経済的に発展することができ、それは満人にも大きな利益となるという確信であった。

謀略を事とする中国
 しかし、中国はそうした日本の善意を解さない。中でも中国共産党は満洲建国後には対日宣戦布告を出している。そうした中国の対日非難に都合のいい謀略が前述した「田中上奏文」の活用であった。
 そして、日本が自国民の保護を理由に軍事行動を起こすのであるならば、日本人に対するテロ行為を、頻発することによって、その軍事行動をより苛烈にすることができる、それは多分に国際社会の非難を招くだろう---そういう意図から起こされたのが、盧溝橋事件、通州事件、上海事件であったろうと思われる。これは結局、支那事変として始まり、解決策を見出せない戦争として拡大する。まんまと中国共産党の謀略にひっかかったのである。
 その大謀略のひとつとして、日本が南京攻略時になしたとされる"南京大虐殺"がある。しかしこれは私も『もうひとつの南京事件』の解説で述べたように、中国の伝統的兵隊像を日本兵に重ね合わせただけであり、日本軍がやったとされる虐殺、強姦、掠奪などといった行為は中国伝統の戦争文化である。
 済南事件が起こったのは、蒋介石の北伐途上のことである。その際に、彼らは敵対する北軍、張作森や張宗昌軍がどんなことをやっていたかということを、宣伝ポスター(写真2)で非難していたのである。お分かりだろう。敵を攻撃するために行う宣伝謀略は、相手が同民族だろうがなかろうが関係ないのである。


■写真2 張作霖、張宗昌軍をおとしめる蒋介石軍の宣伝ビラ。


 「南京大虐殺」を世界に最初に知らしめたとされるティンパーリの『戦争とは何か』では、日本兵が墓を暴いたと非難されている。これも中国人の習慣であり、済南事件では日本人墓地がこのように破壊されている(写真3)。これが本当である。


■写真3 済南事件のとき中国軍によって暴かれた日本人墓地。
写真中央に 遺体の首がさらされている。

 

南京大虐殺の源流
 「田中上奏文」は今は偽文書と誰もが了解しているが、"南京大虐殺"はまだそうではない。私には不思議でならない。これは敵対する相手を打倒するための中国得意のプロパガンダという理解の仕方をすれば難なく理解ができることであり、その意味で、「田中上奏文」は南京大虐殺へと連続しているわけである。
 「田中上奏文」は昭和二年の南京事件の失点をカバーするために中国が編み出した謀略だった。そして、この事件の演出者は中国共産党であった。この年に漢口でできた武漢政府は共産党色の強い政権だった。そこにあの唐生智が重要な役割を果たしていたことが『もうひとつの南京事件』によって判ってきた。彼が日本攻略時の南京防衛司令官であり、部下を混乱の中に放置して逃げたことは知られている。そして東中野修道氏が調べられたように、彼は中華人民共和国成立後に台湾に脱出せず、湖南省の副省長に納まっている。意味深な暗合というべきではあるまいか。
 実質的な昭和の始まりの年である昭和二年は、日本が中国共産党に理由もなく攻撃された最初の年であり、まさしくそのことによってそれとの本格的な戦いの始まりの年であるといえるのである。それは今も続いている。十五年戦争どころではないのである。
 もう我が国の政治家は堂々と宣言してよいはずである。中国共産党とは戦ったが、中国人民とは戦っていないのである、と。