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著者の言葉 |
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| ◎よく言われる通り、歴史は、それが読まれる時代の問題や関心に答えるために書かれるものである。現代を生きる我々にとって、ほんとうに必要な歴史とは、どんな歴史なのか。そのことをこの二〜三十年ずっと考えてきた。私が、国際政治や現代日本のいろいろな問題にも関心を向け続けてきたのは、このことを考えるためでもあった。そして、そのささやかな、本当にささやかな答えの一つとして、本書を世に出すことにしたのである。
◎文明史とは、一言でいえば、千年くらいを一つの単位として歴史を考える営みだ、と私は定義することにしている。ふつうの歴史は一世紀・百年くらいを単位として、時系列に沿って前後のこまかな因果関係を考えつつ書をすすめてゆくものである。そこに一つ違いがある。また、「一千年」などという長いスパンを問題にするといっても、それはいわゆる「通史」ではない。時代や問題を自由に飛び越えて、「本当に歴史を動かすものは、何なのか」という関心から歴史をタテ、ヨコから追ってゆき、また遡る。「文明史」と称されるものは、いずれも多かれ少なかれそのような方法で展開される。ただ本書では、現代
日本人が「文明史」なるものに比較的、なじみが薄いのではないか、ということも考慮して、日本の文明史について叙述した部分(第四章、第五章)では、読みやすさを考慮して、時代を追って時系列に沿った流れを守るようにした。
「文明史」というものの二つめの特徴は、“文明論”とか“比較文明論”といったジャンルとときには関心が重なることもあるが、あくまで具体的な歴史の文脈に沿って、歴史上の具体的事象をとりあげ、それらの間に、ある種の並行関係や類似したパターンを見出してゆこうとするものである。その点で、いわゆる文明論や文明研究とは違い、あくまで歴史であることを最大のアイデンティティとしている。だからそこで、くり返される出来事の基本パターンや、大きな歴史要因(「歴史を動かすもの」に関わりがありそうなもの)、たとえば、周期性とか世代、といったものに着目することになる。
「文明史」というものの三つめの特徴として、ここで予備的ながら触れておきたいことは、ふつうの文化史や近年では「歴史社会学」とか「文化社会学」と呼ばれるものとは違い、文化や社会といった歴史の一領域(それぞれ大きな領域ではあるが)に関心を向けるものではなく、政治・経済・社会・文化・思想・宗教・芸術といった、(理念的には)全ての領域に目をやり、「歴史を動かす本当の要因とは何なのか」を深く考えてゆこうとするものである。(以上「まえがき」より抜粋)
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◎大切なことを最後にもう一度見ておくと、やはり日本がどこの国にもない、「一つの国で一つの文明を担っている」という特別なあり方の国であるということに目が向く。国というものと文明との間に、きわめて緊密な関わりがあるから、「国家生活」に「文明」を全て服さしめることも、また文明の自然な衰えの流れに国家を溺れさせることも、いずれも共に避けることが、我々の「文明史的使命」だと思うのである。
国家はどこまで行っても手段である。文明の再生と発露こそが国家の本来の目的なのである。しかし、一つの国家しか、その文明の後見人がないところでは、国家の存立が直ちに 文明の消長にかかわることになる。この日本人と日本文明のとっての「国家のただならぬ意味」を我々はもう一度、目を見開いて直視しなければならないのではないか。
◎ 私はこれまで、文明史ということでは、西欧を中心に、とくに「大国の衰退」というテーマで多くのものを書いてきた。大学に入って以来、一応ヨーロッパを中心とする歴史を専門として学んできたということもあるが、もう一つはあくまで、そうした西欧の歴史や文明史が、この日本にとって重要な意味があると考えたからであった。あくまで関心は日本でありつづけてきたことは間違いない。
しかし今回、正面から日本の文明史を私なりの観点で一冊の本にまとめてみて、ああやっと私の本来の仕事が始まった、ということをつくづく感じた。思い返してみれば、歴史の勉強を本格的に始めて、この三十数年はここに辿りつくための準備だったのだということを、誠に拙い成果ながら、本書を書き終えて実感として持つようになった。
欧米に長く留学していたときも、突き上げるような「日本への関心」という衝動を感じ、向こうの大学図書館で日本の古典や史書をむさぼり読んだものだ。おかげで専攻テーマが手薄になり、他人の倍の修学期間をかけても、目ぼしい成果は得られなかった。そうした諸々のことも含め、ここへきてやっと、この仕事をするためにこれまでの自分はあったのだ、と納得することができた。(以上「あとがき」より抜粋) |
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正論 2004年2月号
インタビュー/中西輝政
「日本はこの文明史的危機を克服できるか」
定価:680円(税込み)産経新聞社 |
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