田中英道/著
新しい歴史教科書をつくる会/編
定価:1800円(税込み)
平成14年10月28日発売・扶桑社
日本の美は、こんなにもすごかったのか!
芸術にこそ、その国の文化水準が現れる−
日本を代表する美術史家が、風土論・宗教論・国家論までも包含した形で呈示する、芸術国家・日本の新しいすがた。世界と日本を比較する鑑賞眼を備えた著者に導かれて、日本芸術のすべてがこの一冊でわかります。日本に残された真にすばらしい美術・音楽・文学の傑作を紹介しつつ、独自の視点で日本像そのものを再構築する、壮大な文明論。一家に一冊の必携書の登場です!
目次
1 日本人はどこから来たか 列島で何を見たか 14 親鸞はルターに先駆けている
2 日本は「芸術国家である」 15 運慶と鎌倉「バロック」期の巨匠たち
3 「形象」で語る日本「文化」史 16 日本の大学は西欧より進んでいた
4 縄文土器・土偶はすでに芸術である 17 能に光臨する日本の神々
5 中国と異なる巨大文明の発生 18 中国へのロマンチシズム
6 日本の神々の偶像崇拝の禁止 19 キリシタンと日本
7 聖徳太子が世界の宗教を融合した 20 巨大で美しい城郭建築の文化
8 仏像が人間と宗教を統一した 21 日本の「近代」文化は江戸で花開いた
9 日本の「古典主義」の基礎 22 浮世絵はなぜ「近代」絵画の先駆なのか
10 天平のミケランジェロ・公麻呂 23 「近代」日本人は西欧とどう対決したか
11 聖武天皇は芸術の都・奈良の大パトロンであった 24 日本の伝統を主張する美術と映画
12 奈良の都のオーケストラ 25 西洋知識人は日本をどう理解したか
13 大画家・光源氏 26 現代日本のアイデンティティー

【インタビュー】
『国民の芸術を書き終えて』
〜田中英道氏に聞く

〜普遍的価値を有する日本文化にもっと自信と誇りを!!

これまで「芸術論」は難しいとされてきましたが、やさしい語り口と説得力に富む書き方は、読む者を「美」の世界へといざなうと評判です。美術・芸術の範疇にとどまらず、日本文化全体を見渡してそのパラダイム転換を迫る大著『国民の芸術』。これまでの文化論とどこが異なるのか、本書の狙いは何か、田中会長にお話を伺いました。

【対談】> 田中英道氏・芳賀徹氏  国民の芸術』を語る
「国民」シリーズとしては第四弾ですが、内容的には西尾先生の『国民の歴史』に次ぐということで、満を持してのご執筆でした。ご執筆にあたってのご苦労や、その意図されたところについて、まずお聞かせください。
田中 『国民の芸術』の特徴を一言でいえば、単なる文化論ではなく、国民のアイデンティティーの問題を根本においているということです。というのも、芸術という文化の最高形態の中にそれがあるに違いないからです。
 『国民の芸術」は、これまでの歴史観や文化観を単にまとめたようなものではなく、新たな文化的視点を構築するということに主眼をおいて書きました。西洋文化を研究してきた私にとって、こんなすばらしい文化はない、その現実は何かと考えたからです。そのために、資料を多く用い、読者に納得いただけるようにという思いで書きました。
これまで日本文化というと「もののあはれ」「わび・さび」「縮み志向」などが指摘されてきました。まるでこれが日本文化のすべてであるかのような感じでした。
田中 そうなんです。これまで日本文化というと「もののあはれ」「わび・さび」などにほとんど限定されて考えられてきました。「うつくしい」という言葉は「かわいい」とか「ちいさい」とかいう意味まであったと考えられ、「装飾的」で「感傷的」な面が強調されてきました。
 しかし、それは西洋文化にはない点ということで注目されていたのであって、基準はあくまでも西洋にある。西洋文化や中国文化が普遍的な人間性をもっていて、日本文化はそれを補うマイナーな文化だという考え方です。単に西洋の基準を日本にもってきて、「どこそこが西洋文化と異なる。それが日本文化だ」と考えられてきたのです。つまり、西洋が普遍で、日本は特異だといったとらえ方です。たとえば、「日本人は農耕民族だから受動的だ」という決めつけもそうですね。西洋と異なるところだけを取り上げているのです。
 ですからこの『国民の芸術』では、日本文化はけっしてそれだけではなく、美術・建築を中心に普遍的な価値を持ったものであり、世界の価値観の中にあってもきわめて高い価値を有するということを訴えたかったのです。
ただ、それがいわゆる「偏狭なナショナリズム」につながるという批判をする人は出てくるかもしれません。
田中 この本の目的はナショナリズムをどうこうするということではありません。グローバリゼーションという画一化された世界観はまったくおかしいのであって、それぞれの国にはそれぞれの文化がある。その中で、日本文化が世界にひときわ際立った文化としての価値を持つという事実を認識しようとしただけなのです。日本文化にも世界的な価値があると指摘することは、けっしてナショナリズムではありません。日本の文化を自慢するためではなく、日本文化の普遍的価値を明らかにすることで世界の人々と共有したいからです。それをもしもナショナリズムというのなら、私としては一向にかまいません。
縄文土器や古墳などはこれまでも取り上げられてきましたが、『国民の芸術」はこれらをどのような視点で取り上げているのでしょうか。
田中 たしかに、これまで縄文土器や前方後円墳(私は前円後方墳だと思うのですが)は語られてきました。しかし、これらにどのような意味、どのような価値があるかということについてはあまり語られてきませんでした。なぜなら、それらを比較する視点がなかったからです。ただ特異な文明が日本列島に存在したというだけでは、その理解は小さくなります。日本文化の本質を見誤ることにもなります。
先生が世界文明と日本文明をよく対比されるのは、このような理由があったんですね。世界基準を日本文化はクリアしているという意味で、世界と比較されるのですか。
田中 ええ、これまでは比較する対象の研究がなかったために、日本でつくられた文化が世界基準でも十分に価値をもちうるということを日本人自身が認識できないでいたのです。
 さらに、日本にも古典があるということが重要です。古典というのは文化の中心であり、常にそこに立ち返って現代をとらえるという原点でもある。ヨーロッパではこれがギリシャに当たります。ギリシャの哲学も芸術も、建築も民主制も、西洋の原点、古典として厳として存在すると彼らは思っています。近代のナポレオンも、ギリシャの普遍性を広めるという考えをいだいて戦争をしたといわれています。ある意味で、ギリシャ文化が理想化された形で存在していた。
 日本文化において、それは奈良文化に当たるのではないかと私は考えています。その天平文化は質的に日本の古典たりえると。この奈良という時代は、たとえば『万葉集』『古事記』『日本書紀』などの文学書や歴史書などが編纂され、律令制が充実していった時代です。とくに「神話」の確立によって、日本人の根本的な思想、日本の神道が定着しました。また、シンボル的には大仏の建造があります。当時、仏教というのは世界精神のあらわれでもありました。日本の文化が世界的な価値をもって花開いた時代、天平文化は日本の古典として存在する。
 また『古今集』も『新古今集』も、その歌の基本が『万葉集』から出ていることから考えると『万葉集』の理想化が行われていることがわかります。常にこの時代に帰ろうとする。本居宣長の国学が戻ろうとするのも万葉の時代ですね。近代においても保田與重郎などの日本浪漫派がそうです。
 これまでは、このような現象がどこから来るのかがうまく考察されてきませんでしたし、現代から断絶されたものとされてきました。日本人は、「古代はわからない世界」とし、切り捨て、十全な理解をあきらめていたといってよいでしょう。しかし、ヨーロッパでは「古代」ギリシャは研究対象となっていますし、彼らはその文化を理解できると思っている。なぜなら、ひとつにはそこに建築や彫刻が残っていて、現代人にも古典の形そのものに触れることができるからです。音楽や演劇は古典そのままの形を忠実に再現できるわけではありません。しかし、古典美術には多くの形が残されていて、思想や文字とあいまって彼らはそれが永遠性をもっていると感じているのです。日本にはまさにこれらの形が現在に多くがそのままそっくり残っていますので、われわれ現代人にも古代人がつくったものを直接見ることができるのです。
 その点でも、日本の天平文化はギリシャ文化に匹敵するといえる。天平文化は日本文化のふるさと、祖先への出会いの場として位置づけうるということです。
なるほど、形が残っているものはそのまま触れることができますし、日本にはそれが残されている、と。
田中 はい、ヨーロッパではギリシャ文化、イタリア・ルネッサンス文化に最高の評価を与えていて、その遺産を残そうとする精神が非常に強い。古い建築物を再建するにしても、それを基本にして元の形そっくりに再建しようとしています。これは重要な精神です。
 ところが、日本人が木の文化に劣等感をもっていることは問題だと思います。木の文化は西洋の石の文化に劣っているとどこかで思っていませんか。しかし、これはまったく逆です。木の文化を残すというのは原型を残しているということです。西洋では、木は破壊しやすく残りにくいから石でつくるわけです。本当は西洋人も木の文化を残したかったのです。西洋の円柱は木の柱を真似てつくったのであって、原型は木なのです。パルテノン神殿にもサン・ピエトロ大聖堂にもやたらに円柱が多いのをご存じでしょう。また、木の建築は中国でも朝鮮でも、せいぜいここ五世紀くらいのものしか残っていません。
 しかし、十四世紀も前の七世紀の法隆寺などを見ればわかりますように、その木の文化を残しているのが日本なのです。世界的に見ても、これほどすばらしい遺産はないといえるでしょう。木というのは平和な国でないと残せないものです。もちろん、いろんなお寺が戦乱や雷で焼けたりしていますが、日本にはまだまだたくさん残っています。
日本人には文化を残す意志も力もあったということですね。そうしますと、それは日本人の宗教意識と関係があるのでしょうか。
田中 宗教意識というより美意識といった方がよいかもしれません。たとえば、床の間は祭壇でも仏壇でもありません。床の間に神様や仏様がいるわけではなく、掛け軸などの美が飾られています。つまり、美の空間なのです。美の空間を家の中に作るというのは、世界的に見て日本だけに存在しています。このようなこともあまり現代では知られていないのではないでしょうか。これは事実として認識すべきです。
 また、日本人が強い美意識を持っていたということを証明するものに正倉院があります。あれは、世界で最初の美術館ですよ。保存と分類がしっかりしていて、カタログさえ作っています。正倉院は現在の美術館の先駆だといっていいでしょう。しかも、正倉院に集められているものはすべて平和的に集めたものです。大英博物館は大変なコレクションの数を誇っていますが、略奪してきたものも多い。それはともかく、保存、分類、閲覧を考えたコレクションという意味で、正倉院は高く評価できると思います。
 それなのに、なぜ日本文化は正当に評価されないのか、されて来なかったのか。これは端的にいえばマルクス主義の影響が強いからです。マルクス理論によれば古代は奴隷社会です。マルクス主義者は日本の古い時代もすべて奴隷社会としてとらえていますから、これでは日本文化の価値を見出すことは不可能です。なにも古代をことさら神秘化したり原始化したりする必要はなく、私たちは現在まで残っている美を直接見ることができるのですから、それをしっかり見れば、これらの美が西洋より先に日本にあったという事実も見えてくるはずです。
西洋より先に日本にあったという点で、正倉院のほかにどのようなものがありますか。
田中 たとえば音楽のオーケストラもそうです。皆さんはオーケストラといえば、一八世紀以降のドイツやオーストリアを思い起こされるかもしれませんが、楽器こそ違え、打楽器、管楽器、弦楽器など各部そろったオーケストラがずっと昔から日本にはあった。それが雅楽です。しかも、中国や朝鮮や東南アジアの国々の音楽をまとめて、ひとつのオーケストラにしています。各国の和音を日本の和音に統一して演奏している。そこに、アジア全体の音楽を日本で統一するという意志が見えます。
 また、大学もそうです。これまで大学といえばボローニャ大学やパリ大学などが世界で最初の大学として考えられてきました。これもおかしい。日本では律令時代、つまり七世紀の中ごろから「大学寮」として大学が設立されているのです。これはまさに大学だった。それも決して中国の真似ではない。文系も理系もある総合大学の形ですし、それも首都奈良にあっただけではなく、全国各地にもつくられました。
 さらにいえば、当時の日本人は天皇から一般の農民まで和歌を詠んで、歌うことができました。これだって容易なことではありません。きちんとした感性教育が末端までいきとどいていたからこそできたわけです。
日本人はいろいろな場面で美に対する素養を先祖から受け継いできたわけですね。
田中 そうです。民族全体で豊かな感性を育んできたのが日本なんです。これは普通に、当たり前に事実を認識して、正当に評価すればわかることなんです。お城にしても、黒澤明監督は戦国時代のものとして防御のために使っていましたが、これは間違いだと思います。あれだけ目立つ造りは防御のためだけとは考えられません。関ケ原以後、もちろん江戸幕府の政策的なこともあったが、お城も一つの美術品であったという見方ができるでしょう。とても芸術的な造形をしています。実用性だけでなく、美も追求しているのです。
鎧や兜にしても、実用的であると同時に見た目にもたいへん美しく、鮮やかな色を使っていますね。
田中 はい、美術品としても見ることができる。機能性や実用性を求める中で、常に美的感覚も忘れない。これこそが日本の文化なのではないでしょうか。
『国民の芸術』では、古来から日本にもキリスト教の影響があったということを書かれています。
田中 はい、正確には景教(ネストリウス派)ですが、外国の学者もすでにこのことを指摘しています。聖徳太子が厩戸皇子と呼ばれていたりすることも、その事実を示す一端ではないでしょうか。聖徳太子はそれまで日本にあった神道と、伝来した仏教、儒教、道教そして景教を融合したというわけです。これも世界精神のあらわれであるといえるでしょう。
 また、西洋を詳しく研究した西洋の学者、つまり「西洋をよく知っている学者」は、日本を比較的正しく評価しています。やはり、西洋の芸術価値を知った人は、日本の美も同じように世界基準で理解できるということを示していると思います。西洋人であっても西洋をよく知らない人は、日本文化も正しく評価していません。
 日本の神話にしてもそうです。西洋の学者、たとえばレヴィ・ストロースは日本の神話を知って驚く。世界中の神話が融合して体系化されたものがここにあるのだと。世界各地に神話がありますが、日本ほど体系化されているのは珍しい。
 たとえば、『古事記』の世界開闢の場面は「創世記」や中国の神話に、島々を産むところはマオリ族の神話に、火の神が女から生まれたという話はメラネシア、ポリネシア、南米にもあります。イザナギの命の黄泉行きは、冥府に下るオルフェウスに似て、ギリシャ神話と共通する側面をもっています。これらの事実は日本神話の国際性をあらわしていると考えられます。
日本の神々が偶像崇拝を禁止しているというところも面白く読ませていただきました。
田中 これまで偶像崇拝禁止というと、ユダヤ教やイスラム教に限定して考えられていましたが、実は日本の神々はメソポタミアやギリシャの神々と違って、姿かたちを像として表現していないのですね。たしかに「八幡三神」像などはありますが、これは神仏習合下における仏像作製の影響下で生まれたものです。本来、日本の神々は姿を見せず、あらわれるときは仏の姿をかりてあらわれる。お面の姿で能に出現する。この偶像崇拝の禁止は、伊勢の神宮に行けばすぐに理解できるでしょう。
それでは最後に読者の皆さまヘメッセージを。
田中 『国民の芸術』は第一章から読みはじめても、自分の興味あるところ、どの章から読みはじめてもかまいません。どこからでも読めるようなつくりになっています。類書のない、はじめての日本文明の書だと自負しています。読者の皆さんが納得できるよう、さまざまな資料を用いながらやさしく説明するようにつとめました。挿図もできるかぎり入れました。それでだいぶ分厚くなってしまいましたが、お読みいただければ皆さまにも十分に納得いただけるものと思います。

『史』平成14年11月号(通巻35号)より