Vol.02 高森明勅氏
西尾 幹二 (にしお かんじ
新しい歴史教科書をつくる会 名誉会長

昭和10年(1935年)東京生れ。東京大学文学部独文科卒業。同大学大学院文学修士。文学博士。評論家。

著書に『ヨーロッパの個人主義』『ニーチェとの対話』(講談社現代新書)『人生の価値について』『教育と自由』『わたしの昭和史』1〜2(新潮選書)『異なる悲劇 日本とドイツ』(文藝春秋)『歴史を裁く愚かさ』(PHP研究所)などがある。
西尾幹二のインターネット日録
http://nitiroku-nishio.jp/blog/
 
最新刊と主な著作のご案内
本書は「新しい教科書」を応援する二人の管理人が立ち上げたホームページ「西尾幹二のインターネット日録」に、平成14年7月15日から日々アップされ続けられる西尾先生の憂国ノートを、平成15年5月18日記載分までを整理、再編成した魅惑の書!
-西尾幹二の公開日誌-
「私は毎日こんな事を考えている」
徳間書店/平成15年7月発刊
価格: ¥1,800円
西尾先生と韓国では禁断の書、日本ではベストセラーとなった「親日派のための弁明」の著者金完燮氏が日韓併合、日韓の歴史と文化、教科書のあるべき姿など様々なテーマで日韓の過去と未来を熱く語り合った興味深い一冊
日韓大討論
扶桑社/平成15年5月発刊
金 完燮氏との共著
価格: ¥1,429
坐シテ死セズ
石破 茂氏(防衛庁長官) との共著
恒文社21/平成15年9月発刊
価格: ¥1,600
壁の向うの狂気
―東ヨーロッパから北朝鮮へ
恒文社21/平成15年5月発刊
価格: ¥2,600
日本の根本問題
新潮社/平成15年3月発刊
価格:¥1,700
犯したアメリカ 愛した日本
―いまなお敗戦後遺症
三浦 朱門氏との共著
ベストセラーズ /平成14年8月発刊
価格:¥1,600
ニーチェ 第1部
ちくま学芸文庫/平成13年4月発刊
価格:¥1,500
ニーチェ 第2部
ちくま学芸文庫/平成13年5月発刊
価格:¥1,500
西尾幹二の思想と行動(1)
ヨーロッパとの対話

扶桑社/平成12年10月発刊
価格:¥2,000
西尾幹二の思想と行動(2)
日本人の自画像

扶桑社/平成12年10月発刊
価格:¥2,000
西尾幹二の思想と行動(3)
日本人の自画像

扶桑社/平成12年12月発刊
価格:¥2,000
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Vol.01 インターネットの良いこととイヤなこと
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(一)
 私は携帯電話を長いあいだ使わなかったが、やっと所有するようになった。勿論、電話として使うだけで、それ以外の使用法は考えていない。それでもなぜ所有するようになったかと問われれば、公衆電話が近頃激減したからである。街角にグリーン電話を見ることが少なく、新宿駅ですら探してやっと2台あるところに行き着く始末だ。

 小堀桂一郎君は私などより器械嫌いははるかに徹底していて、生涯、テレビを観ない。それでも最近自宅にテレビ受像器を置いたと彼がいうから吃驚していたら、ビデオを見る必要に迫られるかららしい。しかしアンテナをつけていないので、彼の家のテレビ受像器で普通の番組はやはり見られない。 

 私はいくら何でもそこまで徹底していない。テレビは東京オリンピックの頃からずっと見ているが、最近は見るべき番組がたしかにほとんどなくなったことに気づく。タレントが横並びに出てくるトークショウめいた番組が余りに多く、これはいっさい見ないことにしている。

 昔は楽しいホームドラマもあったし、はらはらさせる犯罪者追跡の刑事ものもあった。いったい最近のテレビはどうなっているのだろう。私は今はニュースと、野球中継と、歌謡番組(それも今は週一回になった)しか見ない。

 新しいタレントの名前を覚えることが出来なくなったのに、ふと思い当たる。そうなれば人生お仕舞いに近いのだと誰かが言っていた。広末涼子と深田恭子が私の覚えた最後の名前である(あとほかに少し知っているかもしれないが、嫌いな女の子はどうでもいい)。

 そういう私だから、インターネットなんて柄ではないのである。複雑な器械を操ることは人生で最も苦手である。

 (二)
 私は電気通信大学に長く勤務した。ここはコンピュータの専門大学である。非常に早い時期に学内通信がことごとくネット化し、教授会開催の通知は勿論早くからメイルが採用されていた。私はメイルアドレスを持たなかったし、そもそも器械に電源を入れなかったので、私だけに通知案内がない。

 私は庶務課に文句を言った。教授会に何度も欠席する羽目に陥ったからだ。まあ、欠席してもさして大事はないのだが、庶務課は仕方なく私にだけ、しかも私の自宅にわざわざFAX通信で知らせてくれるようになった。ひとりに対する特別サービスだったから、今頃手数が省けてホッとしているだろう。

 見るに見かねて、親切な先生が停年を2ヶ月後に控えた私を、平成13年2月に、新宿のサクラヤだったかヨドバシカメラだったかに無理に連れて行って、Sotecの器械一式とプリンターを買わせ(総額20万を越えた)、初歩から教えてくれようとした。

 私も一生懸命にやったが、ほとんどものにならないうちに停年を迎えた。器械は自宅の片隅に埃をかぶったまま一年半が過ぎた。プリンターの器械は買ってきたときのダンボール詰めのまま封を切らなかった。  

 私はインターネットは面白そうだとそのとき思ったが、自分には無理だと諦めることにした。インターネットで自分に一番魅力があるのは、書籍の情報収拾と外国の新聞情報である。これが大切であることは前から分かっていた。『国民の歴史』は扶桑社編集部の真部栄一さんがインターネットで打ち出してくれた書籍情報によって成立した本といっても過言ではないほどである。

 だから、かねてからインターネットの利点を私は承知していた。それはもっぱら情報受容の器械としてであって、こちらから広い社会へ向けての情報発信の器械としてではない。後者の役割は念頭になかったし、自分にできることだとは夢にも考えていなかった。

 (三)
 平成14年の夏前に、広島県廿日市市の前の教育委員の長谷川真美さんが、インターネットによる情報発信を私に勧誘してきた。タイピングの仕事は全部彼女がやってくれるという話である。私が毎日何を考えているか、好き勝手なことを書いて送ればそれでいい、後は全部自分と自分の仲間グループが処理してくれるというのである。

 私は内心に抵抗があった。無料で原稿を書くというのはもの書きとしてのプライドが許さない。私生活を語るのは私の趣味ではない。私本来の評論や研究の活動に支障をきたす恐れがある。時間的に侵蝕されるのはもとよりだが、それだけではない。あるテーマをインターネットに掲示した場合に、雑誌や単行本で同じテーマを論じようとするときに、内容がより精度になるという利点があるのとは別に、読者に与える読書効果の減少というマイナス面が発生する。

 つまり二度同じテーマを人は読みたがらない。新鮮さを失う。インターネットで漠然と梗概を書いてしまうと、人はそれで満足し、その先の、より深度を深めた私の思想探査にはあらためて興味を示さないであろう。

 インターネットで読んで、大体のところが分かったつもりになってしまう一般読者の怠け心の手助けをするのは、いかにもバカらしい。

 (四)
 平成14年7月に私は北欧三国の旅行をした。その旅の話を他に書く場所もなかったので、長谷川さんの誘いに応じて、「西尾幹二のインターネット日録」という名で書き出してみた。恐らく北欧の旅がなかったら、私の「インターネット日録」が始められることはなかったであろう。

 それにもうひとつ、9月17日の小泉訪朝を皮切りに始まった拉致問題と北朝鮮危機の毎日のニュースを追い、情報を蒐め、分析するのが、平成14年後半の私の毎日の関心事となった。「インターネット日録」は情報の整理と思想の調整にものすごく役立った。

 北欧の旅が切っ掛けとなり、北朝鮮追跡が動力となって「インターネット日録」は快調なペースで展開した。一日平均2500人から3000の訪問者を得るようになった。恐らく熱心な読者は2000くらいいるだろう。ときどき気になって思い出したようにネットのページを開いてくれる人は5000人以上はおられるのかもしれない。今年10月に入って間もなくアクセス総数は70万を越えると思われる。

 けれども、私がたった今述べた、「インターネット日録」で私の思想を知ったつもりになって、それ以上深く探査しようとしない「怠け者の助け舟」としての「日録」の役割が私にとって遺憾であり、困惑であるという現実は少しも変わらずに残っている。否、むしろますますはっきりしている。

 これは私を当惑させ、疲労させている。

 「日録」は今夏、徳間書店により、5月18日までを再編成して、『私は毎日こんな事を考えている』という題で単行本として発行された。題名は地味かもしれないが、もともと私が毎日何を考えているかについて好き勝手なことを書いて送って欲しいというのが長谷川さんからの依頼内容であったから、書名は意図とぴったりなのである。

 初版は1万部であるが、いまだ増刷はない。本年他に4冊の本を出しているが、どれも売れ行きは同書よりも調子がいい。

 インターネットのアクセス数が1年2ヶ月で70万というのは大変な数字だそうであるが、平均して日に約2500人で、そんなに大きい数字ではない。私の単行本の読者は平均して約10,000である。インターネットの読者は単行本の読者数にとうてい及ばないことが分かった。

 しかも、平均して一日に約2500の「日録愛読者」の固定客は、さっきも言ったとおり、インターネットだけ読んで満足しているのであって、必ずしも本を買って読んでくれているとは限らない。

 「インターネット日録」を始めてから、アクセス数の多いのは有難いと思うけれども、読者の心理というものが私にはにわかに分からなくなってきた。  
 少なくとも「日録」は私の読者の強化には役立っているかもしれないが、拡大には役立っていないように思える。

 (五)
 インターネットに特別に熱心に専念している人は、映画の次にテレビがあったように、活字本の次にインターネットがあるかのように思いこんでいるが、機能が違うので、私はそうは考えない。少なくとも私にとってインターネットは活字本の補助具としての役割を越えるものではない。

 第一、インターネットは書き手(すなわち生産者)の経済性を保証していない。会員制にした一部例外はあるかもしれないが、サイトの提供は一般に無料である。

 映画の次にテレビの時代がたしかに到来したが、テレビは巨大な経済性を保証した。活字本の次にインターネットの時代がたしかにやってきて、そのために(としか理由は考えられないのだが)書籍の売れ行きが激減した。出版界不況は統計の示す通りである。けれどもインターネットによる情報の発掘は、情報の無限の広がりを示しただけで、果てしない情報の拡散と同時進行しているので、発掘が必ずしも集中度をもたらさない。情報の活用と創造は発掘者の努力と知恵にゆだねられているので、情報の提供者には必ずしも富は還元されない。これではいつかは飽きられる。やっているほうがバカらしくなってくるであろう。

 結局いい本を読みたいという人間の心は変わるまい。インターネットは補助具ではあっても、本の代替物になることは不可能だと思う。

 (六)
 私は「インターネット日録」を今も続けている。これに関する限り、私は他の評論には書かなかったような、あるいは書けないような題材や発想を自由に筆にする愉しみを一方では味わっている。しかし他方では、第二ラウンドに入った現在、『私は毎日こんな事を考えている』の時代とは書き方を実験的に、大幅に変えている。

 私は「日録」を読んで私を知ったつもりになっている怠け者の読者に、さっき言った通り不満を抱いている。「怠け者の助け舟」にはならないような書き方に変えている。

 私は私の本来の思想上の仕事のダイジェストはもうしない。代わりに、「インターネット日録」だけでしか読むことのできない、私の今までとは別の側面をみせるような独自の読み物の世界を拡げていくつもりである。

 もしこれを書物化して、書物として成功しなかったら、インターネットを情報発信の器械として用いる方法それ自体を私は止めることになるであろう。

平成15年10月3日

西尾幹二のインターネット日録の感想掲示板(※感想掲示板は現在廃止)より
管理人様、西尾先生ご了解の下、以下転載いたします。

投稿者:おやじの感想  投稿日:2003/10/13(Mon)

「つくる会」のホームページを見たら、ちょうどタイミングよく「ボイスリレー」で西尾先生が「日録」についての感想と抱負を記載されていました。 日録の書物化を一度やったがあまり成功しなかった。もう一度やって駄目だったらもうやめたい。ということのようです。読んで、先生の思いがよく伝わってきました。

ネット上の無料読み物が読者を堕落させ、作者の地位も低下させるということを危惧されているようです。読者の開拓にも悲観的なようです。出版文化を生活の基盤とする書き手を代表するような立場で書かれていたので言葉に重みがありました。将来性のないことに労力をかけたくないというのはもっともなことだと思います。

この企画が長谷川さん(「年上の長谷川」さん?)という方の熱意とご尽力により実現したということは素晴らしいことですが、いくら気配りの達人のような長谷川さんでも、こういった事情は如何ともしがたいのではないかと思いました。

けれども(部外者がいろいろ意見するのも気が引けますが)、書物になりにくい内容を掲載していくという先生ご自身の発想以外にも、いろいろと手はあるのではないかと感じました。例えば、今はあまりにハイペースなので、週や月に1回程度の掲載でも(打ち切りになるよりは)いいのではないかと思いましたし、いっそ先生の気が向いたときだけ書いて頂くという方法もあるような気がしました。著名な思想家と読者との交流などはそう滅多に拝見できるものではありません。

それはさておき、先生のインターネットに対するじれったさというか、持て余し気味の感覚はよくわかります。私の友人のなかにも、インターネットなんか見向きもしないという人が何人かいますが、彼らが劣った人間とは全く思えません。相性の合わない道具と無理につきあう必要はないでしょう。

個人的には、ネットは仕事に欠かせないので、まず自分にとって仕事用のツールですが、それ以外に趣味として見た場合でも、あまり特別なものだとは思っていません。ネットでは多種多様の掲示板にしても、昔でいえば、例えば江戸時代に全国各地から集まった庶民が宿場なんかで(お互いにあまり素性を知らない者どうしが)気軽に世間話をし、世相なんかについて批評し合ったに違いない、そういった現象と同じことだと思いますし、ネット上で「俺はすごいことを考えているんだ」と吹聴して、大真面目にマイホームページを掲げている奴なんぞも、江戸時代でいえば、「これはすごく効きめのある薬ですよ」と言いながら、牛のしょんべんを売りつける詐欺師とおんなじみたいなもの
だと思っております。人間そうそう変わりっこありません。

本の置き所に困るという話題がありました。電子ブックなんて今はほとんど見向きされませんが、数十年後には(「北の狼」さんのご指摘のように)書物は電子化されていくでしょう。狭い居住空間を大量の本が占拠してしまうことは、特殊な コレクターでないかぎり、なくなるような気がします。まず誰でもA4,B4などサイズごとの媒体をもちます。それに本の内容をネットからダウンロードします。この媒体は現在の本のように自由に折り曲げてもよく重量も軽いもので寝転がって読めるようなものになるでしょう。その本のところどころに広告用ページがあって、それは無線でネットにつながっていて、今日はトヨタ車の広告、明日はホンダの広告というように変幻自在に変わるものになるかもしれません。作者の著作権は暗号化技術などで守られます。図書館などは、同じ本を同時に何人にも借り出せないので、先の人が読み終わるまで待たなければならないですが、それもなくなると思います。でも同時に100人もの人に借りだすと本が売れなくなるので、同時には10冊しか貸せなくするという措置をとるかもしれません。新技術がいろいろでてきて、既成事実が積み上げられて、それを追いかけるように法的整備がなされていくと思います。

これでよいことは本の値段が劇的に下がることです。本の印刷装丁や梱包、運搬など附属的な間接費用が大きく削減されます。(でもそれで商売している人にとっては死活問題でしょうが。)本が安価になり置き所に困らなくなればぐんと消費がのびるような気がしますが 、そこは同じ人間、読める時間に限りがあるので、ネットと読書で時間をわけあうでしょうが、仕事時間がますます減るので読書時間は増えるのではないかと思います。

でもこういった技術的なことはさほど重要な問題とは思っていません。本質的な問題だと自分が考えるのは、西尾氏のような思想家が、今後の出版文化において何人も生まれていくということがありうるのだろうか、という疑問です。全然違う分野で恐縮ですが、芸能界やスポーツ界などにおいても人気の移り変りが激しく、今後は美空ひばりや長島茂雄のような巨人は生れないと言われます。
時代のテンポが速くなり過ぎたのでしょうか、それとも人間の興味が分散しすぎたのでしょうか。

こういうこと書くのは誠に失礼かもしれませんが、西尾先生の真剣な読者は西尾氏により啓蒙され育てられたと思いますが、先生ご自身も読者によって成長を助けられたという面があるように思います。こういったように長い年月をかけて著者と読者が互いを育てあうというようなことが思想や知識人の世界では(今後は)ますます難しくなるような気がしました。(漫画などの世界ではあり得るかもしれませんが)

※日録ではなく、ボイスリレーを読んで(空想を交えての)感想でした。