イラク人質事件の三人の家族は、テレビに出て「自衛隊のイラクからの即時撤退」を繰り返し要求し、世論の厳しい指弾を浴びた。なぜ、自分たちの肉親を助けるために自衛隊撤退を要求することが間違った行動なのか、いろいろな説明がなされている。いわく、「公」と「私」の混同。「個」と「国家」の等値(というより、前者の後者への優越)。政府が立案し国会で決めた「政策」の変更を家族が要求することの無理。
どれも全く正しい指摘で間違いではないが、家族には理解できなかったのではないかと私は思った。なぜなら、三人の人質の家族、とりわけ北海道の今井、高遠の両家族は、普通の標準的な日本の家族ではなく、特定のイデオロギーの持ち主であり、もともと「公」や「国家」の観念を持ち合わせていないと思われるからだ。つまり、彼らにすれば「人命は地球より重い」のであり、彼らの娘や息子の命を救うために犯人が要求するならば、自衛隊をイラクから撤退させることはいとも簡単な事ではないかと考えていたはずなのである。だから、彼らの行動の間違いを疑問の余地なく説明するためには、これ以上の価値はないと彼らが思い込んでいる肉親の「人命」と「公」や「国家」という次元の異なるものを比較してもだめなのだ。「人命」と「人命」を比較しなければ、そもそも比較にならないはずなのだ。
自衛隊のイラク派遣は、イラクの人々の復興支援を目的とするものであることは紛れもない事実だが、同時に日米同盟を維持・強化する安全保障上の政策でもある。だから、自衛隊のイラク派遣には、三人の「人命」ではなく、一億二千万日本国民の「人命」が関わっているのである。日米同盟が破壊されれば、日本を狙って中国に配備されている40基の核ミサイルと北朝鮮の200基のミサイルの脅威に丸裸の日本国民はさらされる。この論理を誰かが指摘していないかと探していたら、『諸君!』6月号に佐々淳行氏が、ソマリアのハイジャック事件の際の西ドイツ首相シュミットの次の考え方を紹介しているのに出合った。「人質になっている百名足らずの人と、ハイジャッカーを野放しにした場合に脅威にさらされる何万、何十万という人たちの生命の尊さとを比較考量しなければならない」。
「公」と「私」の字体に共通する要素は、「ム」の部分である。これは本来まっすぐなクギが折れ曲がっていることを示す象形文字で、よこしまな心を表す。「私」とは「禾」が象徴する穀物などの収穫物をよこしまに自分のものにすることである。それに対し「公」は、そのよこしまな心を「八」の部分で示されるように、上から押さえつけ抑制している状態を表す。人間は弱い存在だから、日本人全体が地球上から消えても自分の子どもの命だけは救いたいと密かに思うかも知れない。しかし、そのねじ曲がった心をむき出しに表出することは絶対に抑制されなければならない。人質の家族が、口が裂けても言ってはいけない自衛隊撤退を声高に主張したことが「公」の観念を全く失った見苦しい行動であることを日本人の常識は許さなかったのである。