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私が学校を出たのは、昭和28年。その頃の京都は、女は学校を出たら嫁に行くものという時代だった。事実、半数は結婚したが半数は仕事を持ちたいと思っていた。
日本はまだまだ貧しく、就職試験を受けてはすべり、受けてはすべり。
10社くらい受けて、やっと私を採用してくれたのは大阪、駅前のヤンマーディーゼルだった。
その頃の大阪は、京都からは遠く、若い女性の就職のテリトリーではなかった。しかし、私は頑張った。
毎朝、5時前に起きて朝食をすませ弁当を作り、化粧、表の水まきなどをすませて6時半に家を出る。冬など真っ暗。四条大宮の駅まで30分歩く。
満員の電車は4〜5両か。女性で通勤していたのは3人位。きっと目立っていたのだろう。今のように女性専用車なんてないのだから。3両目の後ろに並んでいて、いざ電車がホームに入ってくると、2両目の前に走る。特急電車も無ければ冷房車両も無い。
家から会社まで1時間30分。 帰途も又、1時間30分かけて自宅へ帰って来る。それから、おけいこごと。お茶、お花、英会話、英文タイプ、洋裁、書道。毎晩がおけいこごと。
夜9時頃やっと晩ごはんを食べて、銭湯へ行って一日が終わる。又、翌朝5時半起き。3年間、只の一回の遅刻もなく、一日の欠勤も無かった。
どうしてこんなハードなことが出来たのか。
私が一人頑張っていたのではない。私達も頑張ったけど、親の世代も頑張った。祖父母の世代も頑張ったのだ。敗戦のあとの貧しく混乱していた時代、家族は助け合っていたし、より良い生活の為努力をしていた。
あの頃の母はたくましかった。
何枚のきものが米と変わったのだろうか。母はきものを抱えて国鉄に乗って滋賀県の守山や野洲の農家をたずねあるくのだ。
ある日、母は手ぶらで帰って来た。銘仙の羽織をお米に替えたのに、帰りに野洲の駅で警官に没収されたと言う。
「片道一時間も歩いたんえ。親切な農家の人がお米と一緒にどぼ漬け(ぬか漬け)も包んでくれはったんや。暑いのにたいへんやなぁ言うて、冷たい井戸水も飲ましてくれはった。せやのに…せやのに。」
母は米をとられた悔しさに、めずらしく泣いた。かける言葉もなく、私も泣いた。
明治の親は自分の責任で子供を育てた。いわばそれは理屈ではなく本能だ。いくら平等教育で子供を育てたって、社会に出ればその日から競争だ。私の強い精神力は自分で作ったものではない。親が作ってくれたものだ。
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