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日本は三権分立の国家体制をとっているが議会(立法)及び政府(行政)の権力に比較して裁判所(司法)の果たす権力・役割は随分と小さい。最高裁長官の名前も殆どの人は知らない。司法に携わる人的基盤の面から言えば、活動中の弁護士が全国で約2万人(その半分は東京にいる)、裁判官2〜3千人、検察官1千人程度であり全国1億2千500万人の人口を抱える経済大国の法曹の数量が貧弱であるのは明らかである。民事、刑事、家事、行政、税務、特許等々の法的問題で法律家が裁判手続上、活動すべき領域は広汎にわたり内容も多岐である。税理士や弁理士、司法書士等周辺の「士業」者を含めても司法界は構造的な人材不足であった。そのため国民の間で(潜在的なものはもとより)顕在化した法的紛争解決のニーズに応えていないとして司法の力不足が指摘されてきた。
近年の経済のグローバル化ないしは社会のアメリカ化に応じた形で、日本のこれまでの、諸規制に守られ或いは囲い込まれた業界縦割り・行政指導中心の護送船団方式の社会運営システムは閉鎖的であり事前規制の手法そのものが不透明で不公正であるとする議論が台頭した。そして社会の法的運営の側面について、(1)自己責任と(2)法令の遵守(コンプライアンス)を大原則とし、自立した各主体が開放的に行動し透明性の高い規範による事後調整・紛争解決型の、いわば法化された社会へと脱皮すべきであると論じられるようになった。
現在、政府は司法改革本部(小泉首相が本部長)を設置して「司法改革」と称する種々の改革を上記のような文脈の中で行おうとしている。刑事裁判における裁判員制度(一定の重罪に限り一般の国民を裁判官と合議させて事実認定、有罪無罪及び量刑を決める。お上まかせの刑事裁判への国民の強制的参加。)が既に立法化され実施の準備中である。また法曹養成のためのロー・スクール(法科大学院)が文部科学省と大学の政治力もあって突如具体化し、本年4月に全国で開校済みである。そこでは3千人近い学生が学んでいる。2010年から3千人の合格者(現在の倍以上)を出す新司法試験を実施し、その後の10年で法の主たる担い手である法曹人口は倍増する予定である。
このような司法改革の流れと我々の目指すべき教育改革とを、どう関連づけるとよいだろうか。
司法改革が基調とし前提とする国民の「自己責任」を真に可能にするため、また正しい内容の「法令遵守」が社会活動の基本となる教育改革が重要である。国民が自己責任を自覚するとは、各人が自律性と自立性を重んじることであり他人任せの運命からの決別を意味する。そのような国民は、当然に国家の自立と独立性を要求する。自己責任を肝に銘じた自立した国民が国家の対外的自立に無関心であることはあり得ない。国民各自が自己責任を自覚せよとは、国家の自立を考えよということとストレートに結びついている。すなわち日本がどのようにして独立を維持して国家として自立してきたかを正しく情熱をもって教育することが、そのまま個人の自己責任を促すのである。
また現在の日本社会で日々衰退しつつある「法令遵守」の精神が社会の重要原則となるためには、単に厳罰によって威嚇する法家思想的な社会統制術の普及ということではおよそ不十分である。日本社会が伝統的に保持してきた信義誠実や条理に根ざした、日本における「法の支配」の再発見と深化・徹底化が必要である。人間は単に法律でそうなっているからそれを遵れと命じられたからといって、唯々諾々と従う存在ではない。法令が道徳の最低限を画しているものであるとの確信が持て、かつ、人間として規範的に生きていきたいという切実な要求を基本的な生き方として身につけさせることで初めて法令遵守が国民の社会的態度として確立される。したがって日本における歴史的な「法の支配」を正しく学ばせ、その歴史を貴重な指針として教育するとともに、規範を求めて生きるのが価値ある人生態度であることを教える「道徳教育」が、司法改革の根本基盤と認識されなければならない。
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