Vol.14 高池勝彦氏
福田 逸(ふくだ はやる
新しい歴史教科書をつくる会 理事

昭和23年(1948年)生まれ。明治大学教授。(財)現代演劇協会理事長。劇団「昴」代表。演出家、翻訳家。
Vol.15 「新しい国語教科書」も!
 あけましておめでとうございます。今年はいよいよ中学校教科書採択の年、私達にとってはまさに決戦の年です。前回はいわば小手調べ(だったということにしておきましょう)、しかし今年は絶対に負けられない。一敗はあり得ても二敗は全敗とも言い得るのですから。

 幸い、東京都や埼玉県に曙光が射し始めてはいますが、この一条の光を全国津々浦々にまで行き亙らせたいものです。

 ところで、年明け早々の新聞記事で御覧の方も多いと思いますが、国立国語研究所が五十年ぶりに日本人の読み書き能力など国語力の調査を計画しているとの事、出来れば平成十八年の実施を目指しているとか。おそらくこの動きは、昨年発表された経済協力開発機構による十五歳生徒の学習到達度調査や、国際数学・理科教育動向調査などの結果に如実に現れた日本人の学力低下、あるいは、文化庁が行った「国語に関する世論調査」や独立行政法人「メディア開発センター」が平成十六年度入学の大学生を対象に行った「日本語力」の調査の結果を受けてのものでしょう。どれもこれもお寒いを通り越して、我が国への絶望さえ感じさせる惨憺たる結果を示しています。

 その中で国語に関する後者二つの調査ですが、文化庁の調査によれば、「檄を飛ばす」「姑息」「憮然」などを七割前後の人が誤用しており、「さわり」についても六割近くが「話などの最初の部分」だと思い込んでいるとか。一方「メディア教育開発センター」の調査は、大学生一万三千人を対象にしたものだそうですが、「露骨に」を「おおげさに」だと思い込んでいる学生が八割超、「憂える」に到っては「喜ぶ」ことだと回答したものが七割近く、正答はゼロ%。「懐柔する」も全員が「賄賂をもらう」「気持ちを落ち着ける」「優しくいたわる」といった誤答で、正答はゼロ%だそうです。

 以上は主として産經新聞によるものですが、同紙は後者の記事に、<「留学生以下」お寒い大学生>という見出しをつけていました。ただし、同紙に掲載されたグラフによれば、短大・私立・国立という順で成績は上がっています。筆者が担当する数クラスで試した結果も上記平均値に較べれば、まだしもというものでしたが、逆に「懐柔する」の選択肢で、上の調査では回答ゼロ%の「抱きしめる」を選択した学生が一名いました……!
 
 よく言われることですが、国語はあらゆる学問の基礎であり、思考の媒体、というより思考そのものとすら言えます。我々日本人が日本人であることを担保しているのは、何にも増して国語でしょう。一つの民族が、国家が、その歴史を紡ぎ出し歴史に支えられて成長して行くとしたら、その根幹にあって核となるのは国語以外のなにものでもありません。国語とはおそらくは国柄そのものであり、国語を失えば民族も国家も滅ぶ。ということは、上の各調査は亡国の足音以外のなにものでもないでしょう。

 今さら国立国語研究所の調査の結果が出るのを待つまでもなく、我が国の国語力の衰えは既に周知の事実であり、のんびり調査などしているより、一刻も早く国語教育の改善を図らなければならないはずです。

 我が「つくる会」は言うまでもなく「新しい歴史教科書」をつくるために生まれ、さらに踏み込んで公民の教科書もつくりました。これはいわば崩壊した教育現場改革の運動に他なりません。それなら、いっそのこと「新しい国語教科書」も手掛け、この惨憺たる現状に少しでも歯止めをかけることを視野に入れてもいいのではないでしょうか。国語力を向上させ、記紀万葉以来の我が国の文学への愛着を子供達のうちに育むということは、必ず祖国の歴史への愛着にも繋がるはずです。
 
 今年の採択で一割を超す採択率を勝ち取り、やがて何年か後には、この会の名称も発展的に「新しい教科書をつくる会」となるのもいいではないかと考える年明けでした。
平成17年1月11日
<追記>
 上記エッセイ中、第四段落の≪六割近くが「話などの最初の部分」≫という箇所ですが、実は私のそそっかしさから、このページに初めに載った時は≪三割余りが「話などの要点」≫と正解のほうを書いてしまいました。それを親切な一読者が指摘して下さり、上記のように訂正しました。その方には心から感謝する次第です。

 ところで、単なる誤記訂正で済ませようかとも思いましたが、なぜそのようなミスを犯したか、弁明というより、事の次第とその後調べたことを書きます。

 長年、演劇の世界に身を置き、「さわり」という言葉はよく耳にもし自分でも使っていました。ただ、今まで一度として、「最初の部分」という誤用は言うまでもなく、「話などの要点」という意味で使われた例に出会った記憶がないのです。そのためだと思いますが、文化庁の調査が新聞に載った時も、上記のエッセイ執筆時も、どこか落ち着かぬまま書いていました。

 演劇界で我々が「さわり」といえば、その作品で「一番趣き(味わい)のある科白」「一番いいところ」といった意味合いです。「要点」とか「重要なポイント」といった意味合いでは使いません。

 本来なら執筆時に調べるべきでしたが、ご指摘を機会に幾つかの国語辞典に当たりました。広辞苑の第五版(平成10年版)には確かに「話や物語などの要点」と出ていました。ところが、同じ「広辞苑」でも平成3年版の第四版にはこの語義を載せてなく、「大辞林」(初版・昭和63年)や小学館の「日本国語大辞典」(初版・昭和49年)などに当たっても、その種の意味は全く出ていません。さら昭和31年の大槻文彦編纂になる「大言海」、昭和14年上田萬年・松井簡治編纂の「修訂・大日本国語辞典」と遡ってみても、「要点」という意味の解説は見当たりません。

 そして、すべての辞典に共通してあげられている説明が、要約すると「人形浄瑠璃の義太夫節の一部に他の音曲をかぶせ(=触らせ)、そこを盛り上げ、際立たせること」ということです。それが転じて「最も情緒に富み、感動的な部分」「さわり文句」といった意味合いを帯びてきたようです。これで、私が、なぜ「戯曲のさわり」「さわりの科白」といった言い回しにしか出会わなかったのかが納得できたのです。

 ということは、文化庁の調査も(あるいは辞典というものの性質も)よく考えて見なくてならない。新しく多くの人が使い始め認め出した意味を、どこまで正しいとし、どこからは誤りだというのか。ほんの十年単位くらいで使われだした新しい意味(例えば上の「要点」)を本来の意味とするなら、六割近くの人が現在正しいと思い込んでいる「話などの最初の部分」を誤りと言えるのでしょうか。

 私の立場は、どちらも誤りだと言わざるを得ないのです。基準はといえば、これはもう私の経験から来る言葉の捕らえ方と言い切るしかなくなります。執筆時に何か落ち着かず引っ掛ったまま、書いてしまったことを改めて反省し、「さわり」の本来の意味・典拠を確認する機会を与えてくださった読者の方に改めて感謝するとともに、この余りにも急速な語義の変化そのものに疑義を呈する次第です。やはり国語教育をきちんと見直すこと、その根幹に言葉とは何かをじっくり考察することの必要を痛感しています。(以上のような次第ですが、上記のエッセイは文化庁の調査のまま「要点」を「本来の意味」とし、この追記をいわば訂正記事とさせて頂きます。)
                             
1月27日記