「史」から~自由の国から収容所への「帰国」 |新しい歴史教科書をつくる会

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自由の国から収容所への「帰国」

1959年から1984年にかけて、この日本から在日朝鮮人約9万3千人が、北朝鮮に「帰国」した。いわゆる北朝鮮帰国事業である。しかしこれは厳密な意味での「帰国」ではない。ほとんどの「帰国者」の故郷は「南」であり、その中には、当時朝鮮人と結婚していた日本人妻約1800名、そしてその子供たちも含まれていた。

当時、朝鮮総連は「北朝鮮は地上の楽園」という虚偽宣伝を展開した。豊かで発展した差別のない北朝鮮。教育費、医療費、家賃はすべて無料、等々。そして、自民党から共産党までの政党も、左右のマスコミもみな帰国事業を支持していた。自由民主主義国から共産主義国に向けて、これだけの人間が移動したのは、人類の歴史上最初で最後のことであろう。しかし、帰国者たちは北朝鮮に着いた瞬間に、この国が当時の日本よりも遥かに貧しいことを知らされた。しかも、外部の社会を知る彼らは当局によって監視対象となる。些細な不満や批判を漏らしただけでスパイとみなされ、政治犯収容所に送られた例が幾つも伝えられる。

帰国事業初期、北朝鮮に向かう船に乗り込む朝鮮人たちはみな希望に溢れていたが、日本人妻たちは、不安感を隠せない人がほとんどだったという。当然だろう。言葉もわからぬ、政治体制も違う異国に向かうのだ。しかし、彼女たちは夫と別れて日本に残る決意はつかなかった。それは子供がいたからである。夫が子供を異国に連れていく以上、母親として、一人日本に残ることはできなかった。

北朝鮮で彼女たちに何があったのか、ここで詳細に記すことはできない。私が言えるのは、彼女たちが北朝鮮で、小さな「日本」を胸の中で守りながら生き、そして死んでいったことだけである。私が中国で、直接脱北者から聴いた話を一つだけ紹介する。90年代、北朝鮮では食糧配給が途絶えた。その脱北者は配給所に勤めていたが、人々は何度来ても配給が再開されないことを知り、そこに来ることをやめた。強いものは泥棒を、弱いものは乞食をしてでも生き延びるしかない飢餓の時代がやってきた。しかし、ある女性は、最後の一人になっても、配給所を繰り返し訪れた。彼女の体力は来るたびに目に見えて衰えていったが、だからといって物乞いをするでもなかった。そしてついに力尽きたのか、二度と彼女を見ることはなかった。その女性は、日本人妻だった。

脱北した朝鮮人はしばしば語る。「日本人妻は気の毒だ、悪いことをしてでも生きるという力がない人たちだった。」しかし、私は思うのだ。泥棒や物乞いをしなければ生きられない世の中を、この女性は日本人の道徳を守りつつ、静かに拒否したのではないだろうか。

このような日本人妻たちを、自分の選択で朝鮮人と結婚し、北朝鮮に行ったのだから仕方がない、と切り捨ててよいのだろうか。人生のすべてが自己責任の一言で片付けられ、異郷の地で苦しむ同胞に何の同情も覚えない、そのような国が私たちの目指すべき日本なのだろうか。せめて私は、この帰国事業と日本人妻の悲劇を、この国の歴史にとどめおきたいと思う。




平成29年6月8日更新



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三浦 小太郎(三浦 小太郎)
理事・評論家