育鵬社盗作問題について|新しい歴史教科書をつくる会

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育鵬社歴史教科書盗作問題について

平成24年6月
新しい歴史教科書をつくる会

 この度、当会は平成23年度採択に関連する一連の調査を行いました。
 その結果、現行の育鵬社版中学校歴史教科書『新しい日本の歴史』の記述は、当会の著者が執筆した扶桑社の『改訂版 新しい歴史教科書』(及び自由社の『新編 新しい歴史教科書』)の中から、多くを盗用していることが明らかになりました。
 これは倫理的に許されない行為です。この問題についてすでにインターネット等で、誤情報を含む多くの情報が錯綜しており、ここでこれを見過ごせば後々さらなる混乱を招きます。
 当会は、無用な混乱を避けるため、この件について正確な事実を公表し、速やかにこの問題を解決させることが望ましいと判断いたしました。各位におかれましては何卒、この盗作問題について正しくご理解くださるよう、お願い申し上げます。


1.扶桑社版の約9割が「つくる会」側に著作権

 平成19年2月、扶桑社は「つくる会」と絶縁する旨の通告をしてきました。そこで、扶桑社の歴史教科書を執筆した「つくる会」の著者は、自由社から教科書を出すこととする一方、東京地裁に、①自分たちが執筆した教科書の著作権の確認と、②その教科書の出版差し止めを求める訴訟を起こしました。東京地裁の判決は、新学習指導要領が実施されるまでの2年間は出版契約が継続していると見なされるとして原告の②の訴えは退けましたが、①の著作権は明確に認める判決を下しました。
 同判決に従って整理すると、全体で82単元のうち75単元(約91%)の本文と、コラム29個中23個(約79%)について、当会側に著作権が存在することになります。従って、扶桑社版は、その大部分が当会側著者の手になるものだということが確認できます。


2.「全く新しい記述」になると表明していた教科書改善の会

 地裁判決の結果、新学習指導要領に基づく歴史教科書については、育鵬社は単元本文とコラムを一から自力で作成しなければならない立場に置かれました。育鵬社が『改訂版 新しい歴史教科書』を書き換える形で教科書をつくれば、盗作・盗用の恐れが生じます。それゆえ、育鵬社の教科書を応援する「改正教育基本法に基づく教科書改善を進める有識者の会」(教科書改善の会)も、平成21年9月3日 、代表世話人・屋山太郎氏の名で声明を出し、「次回検定申請について」という項目で、次のように述べました。

当会は、改正教育基本法と新学習指導要領に基づいて扶桑社版教科書をさらに充実させる育鵬社の中学校歴史・公民教科書の発行を支援し、来年度の検定申請に向けて粛々と編集作業を行っています。なお、歴史教科書については全く新しい記述となり、著作権の問題が生じる恐れはありません。

 このように教科書改善の会も著作権問題が生じることを明確に意識し、全く新しく歴史教科書をつくると宣言していたのです。しかし、その言葉と異なり、実際に完成した教科書の記述の多くは、以下の通り、当会の著者の手になる『改訂版 新しい歴史教科書』(及び『新編 新しい歴史教科書』)からの盗用といえるものでした。


3.盗作の全体像……盗作は47カ所

当会側著者の原稿をリライト(書き直し)したのは44単元
 育鵬社版歴史教科書の全83単元の中には、①教科書改善の会側が著作権を持っている単元、②学習指導要領の改訂で新設された単元、③扶桑社版に依拠せず今回自力で書いたと思われる単元がありますが、それらを除いた、残りの44単元は、当会側著者の原稿をリライトしてつくっています(④リライト単元)。
 ただし、リライトでつくられたとしても、類似性の薄いものは直ちに盗作とはいえません。そこで、そのうち、類似性の著しい、盗作といえるところを探しました。全部で33単元・47カ所の盗作があることが判明しました。

育鵬社の章 ③自力作成単元 ④リライト単元 うち、盗作単元 盗作個所

1.原始と古代

3単元 8単元 6単元 10ヶ所
2.中世 2単元

5単元

2単元 3ヶ所
3.近世 4単元

12単元

 8単元 11ヶ所
4.近代

14単元 

3単元 2単元
 2ヶ所
5.二つの世界大戦  4単元 12単元 11単元
16ヶ所 
6.現代

2単元 

 4単元 4単元  5ヶ所
 29単元  44単元  33単元 47ヶ所



4.扶桑社・自由社と育鵬社はこんなに似ている

 参考までに上記47カ所中、記述が酷似している例を2カ所だけ紹介します。 (下線は類似個所)

【例1 稲作開始】               

○扶桑社『改訂版 新しい歴史教科書』(平成18~23年度使用・代表執筆者=藤岡信勝)

 「すでに日本列島には、縄文時代に大陸からイネがもたらされ、畑や自然の水たまりを用いて小規模な栽培が行われていたが、紀元前4世紀ごろまでには、灌漑用の水路をともなう水田を用いた稲作の技術が九州北部に伝わった。稲作は西日本一帯にもゆっくりと広がり、海づたいに東北地方にまで達した。
 稲作が始まると、これまで小高い丘に住んでいた人々は、稲作に適した平地に移り、ムラ(村)をつくって暮らすようになった。人々は共同で作業し、大規模な水田がつくられるようになった。稲穂のつみ取りには石包丁が用いられ、収穫して乾燥させた稲を納める高床式倉庫が建てられた。ムラでは豊かな実りを祈り、収穫に感謝する祭りが行われた。」(24頁)

○自由社『新編 新しい歴史教科書』(平成22~23年度使用・代表執筆者=藤岡信勝) 
 扶桑社と同一文

●育鵬社『新しい日本の歴史』(平成24~27年度使用・代表執筆者=伊藤隆)

 「わが国には、すでに縄文時代末期に大陸からイネがもたらされ、畑や自然の湿地で栽培が行われていました。その後、紀元前4世紀ごろまでに灌漑用の水路をともなう水田での稲作が、大陸や朝鮮半島から九州北部にもたらされると、稲作はしだいに広がり、東北地方にまで達しました。
 本格的な稲作が始まると、人々は平野や川のほとりに住み、ムラ(村)をつくるようになりました。人々は協力して作業を行い、木のすきやくわで水田を開き、石包丁で稲の穂をつみ取って収穫しました。稲穂は湿気やねずみを防ぐため高床式倉庫で保存されました。」(24頁)



<参考:下記のように、他社は全く似ていません>

○東京書籍(平成18~23年度)

 「紀元前4世紀ごろ、大陸(おもに朝鮮半島)から渡来した人々によって、稲作が九州北部に伝えられ、やがて東日本にまで広がりました。人々は、水田の近くにむらをつくって住み、たて穴住居の近くには、収穫した稲の穂をたくわえるための、高床の倉庫もつくりました。」(19頁)

○帝国書院(平成18~23年度)

 「縄文時代の終わりごろ、中国や朝鮮半島などから北九州へ渡来した人々が稲作を伝え、稲作は西日本から東日本へと広まっていきました。このとき渡来した人々と縄文人が少しずつまじり合うことによって、のちの日本人や文化のもとができました。」(24~25頁)

【例2 フェートン号事件・モリソン号事件】

○扶桑社『改訂版 新しい歴史教科書』(平成18~23年度使用・代表執筆者=藤岡信勝)

 いっぽう、北太平洋では、アメリカの捕鯨船の活動がさかんになり、日本の太平洋岸にこれらの船が接近して、水や燃料を求めるようになった。幕府は、海岸防備を固めて鎖国を続ける方針を決め、1825(文政8)年には、異国打払令を出した。そのため、幕府は、1837(天保8)年、浦賀(神奈川県)に日本の漂流民をとどけにきたアメリカ船モリソン号を砲撃して打ち払った(モリソン号事件)。 (121頁)

○自由社『新編 新しい歴史教科書』(平成22~23年度使用・代表執筆者=藤岡信勝) 
 扶桑社と同一文

●育鵬社『新しい日本の歴史』(平成24~27年度使用・代表執筆者=伊藤隆)

 一方、北太平洋では、アメリカの捕鯨活動がさかんになっていました。これらの船は、わが国に接近して、水や燃料の補給を求めるようになりました。これに対し幕府は、海岸防備をかためるとともに、1825(文政8)年には異国打払令を出して、鎖国政策を守ろうとしました。1837(天保8)年、日本人の漂流民を救助して、わが国に送り届けようとしたアメリカのモリソン号が、異国船打払令によって砲撃される事件がおきました(モリソン号事件)。(123頁)


<参考:下記のように、他社は全く似ていません>

○東京書籍(平成18~23年度)

 「18世紀後半からのロシア船の来航に続き、19世紀になると、イギリスやアメリカの船が日本に近づくようになりました。こうした動きを警戒した幕府は、1825(文政8)年、外国船打払令を出しました。このため、漂流民をわたそうとしたアメリカの商船を打ち払うという事件が起こりました。」(116頁)

○帝国書院(平成18~23年度)

 「18世紀の終わりごろから、日本の沿岸には外国船がひんぱんに現れるようになり、幕府に通商をせまりました。幕府は、台場(大砲陣地)をつくるなど、海の守りをかため、異国船打払令を出してこれに対応しました。」(128頁)


◎育鵬社は、扶桑社・自由社から文章を盗用

 上記のように育鵬社の文章は、東京書籍や帝国書院とは全く似ていません。他方、著者が一人も重なっていないのに、扶桑社・自由社と酷似しています。遺憾ながら、後から出された育鵬社版は、先に出ていた扶桑社と自由社から文章を盗用したと言わざるをえません。