私は勝岡氏に何を話したか

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私は勝岡氏に何を話したか

新しい歴史教科書をつくる会顧問
杉原誠四郎

  *この文章は、本来雑誌『正論』の2021年1月号に掲載されるべく執筆されたが、『正論』編集長が掲載を拒否したものである。(『史』編集部による注記)

●はじめに
 この論考は、雑誌『正論』12月号に載った勝岡寛次氏の論文「文科省は『不正検定』に手を染めたのか」の最後のところで触れられている、本年9月20日に私が勝岡氏と会って話した時のことについて、その内容を再現し、ことの是非を明らかにしようとするものである。勝岡論文に対する内容上の反論は、本件『新しい歴史教科書』の代表執筆者たる藤岡信勝氏によって十分になされるであろう。
 その前にひとこと言っておきたいのであるが、『正論』に載った勝岡論文に対する反論乃至事情説明であるから、本来『正論』で論じるべきことである。しかし、なぜか、理由の説明もなく、『正論』編集部は田北真樹子編集長の名で掲載を拒否してきた。産経新聞社が発行する天下の公器たる『正論』にあって、決して望ましい決定ではないであろう。
 もう一点、勝岡論文に対する異論として明確に述べておきたいことがある。勝岡論文には、勝岡氏の『歴史認識問題研究』に掲載された論文についてつくる会が「見解」を表明したことについて、「一研究者の論文に組織を挙げて反論を公表するとは穏やかではない」と書かれている。つくる会は教科書を良くするための運動団体であり、それゆえに歴史教科書を制作し、文科省の検定に出しているわけで、その主張が誤解される恐れのある論文が出てきたとき、運動団体として反論するのは当然であり、その点は勝岡氏に見解を改めていただきたいと思う。

●私は何を発言したか
 さて、それでは、雑誌『正論』に掲載された勝岡論文の最後で問題とされている9月20日の私と勝岡氏との話し合いについて、それを再現する。
 この話し合いは、もともと、私と良好な関係にある勝岡氏から申し込んでこられたもので、当初は二人で会うことになっていたものであるが、勝岡氏の申し出により、同じく教科書改善に取り組んでいる高橋史朗氏と、やはり教科書問題に取り組んでいる元東京都議・土屋たかゆき(敬之)氏が同席された。
 藤岡信勝氏はこの会合の存在を事前に知り、同席したいと求められたが、私の方から藤岡氏の同席は断り、その替わり何が話し合われたかは、事後に必ず報告すると約束した。
 話し合いが始まる時点まで私は知らなかったのであるが、歴史認識問題研究会の紀要『歴史認識問題研究』の第7号(令和2年9月18日発行)に、今回の自由社歴史教科書に関わる文科省の「不正検定」に関する勝岡論文が載っていることを知らされ、その論文の掲載されている紀要を授与され、内容の説明を受けた。
 勝岡氏としては、検定不合格事件に関してつくる会に対し厳しい評価を下す論文を発表したので、つくる会の顧問でもあり、友好関係にある私に、紀要配布前に知らせておこうという善意で私に会われたのだと私は思っている。
 しかし、この勝岡論文の骨子は、前回平成26年度の教科書検定の際に、文科省から欠陥箇所として指摘され修正したところを、再び元に戻して申請したところが約40箇所あり、その中には単純ミスもあり、この40箇所の欠陥箇所がないだけでも、年度内に検定合格できる上限の欠陥箇所数376を29上回ることはなくなるのだから、年度内に検定合格し問題は起こらなかったはずだった、というものであった。
 私は言った。確かに勝岡氏の言うことは成り立つ。しかしそのことは、今回の検定で「不正検定」が存在したかしなかったかという最も肝心な問題で、「不正検定はなかった」ということの証明にはならない。欠陥箇所として指定すべきではないところを文科省が欠陥箇所に指定した「不正検定」の箇所が29箇所以上あるかどうかが、証明のポイントである。本来、1箇所でも「不正検定」があればその教科書に対する検定全体が「不正検定」であるが、それが29箇所以上になって年度内合格ができなかったとすれば、それは年度内の検定合格をさせないための正真正銘の「不正検定」になる、と。
 勝岡論文には、次の問題もあった。「生徒が理解し難い表現である」や「生徒が誤解するおそれのある表現である」との検定項目を用いた主観的な理由で欠陥箇所とされているところが自由社の歴史教科書では292箇所にも及び、これを不当としてつくる会が文科省を批判していることについてのものである。勝岡論文では、右の検定項目を適用してつけられた指摘の数を、全ての教科書会社の歴史教科書ごとに、その教科書の検定意見の件数全体の数と比較し、その比率がほぼ同じであることを明らかにしていた。そして、そのことによって自由社に対する292箇所に及ぶ欠陥箇所の指摘には異常はなく、よって通常の検定が行われたと言える、という趣旨の記述がなされていた。
 これに対して私は、「不正検定」の問題はこの比率の中にあるのではない、問題は絶対数であり、もし比率ということでいうならば、どの教科書会社も教科書としては、ほぼ同じページ数であるから、ページ数に対する比率で考えるべきである、と指摘した。
 さらに、私が言ったのは次のことである。つくる会としては年度内合格を認めないいわゆる「一発不合格」を宣告されたとき、175箇所の反論を提出したが、これに対して文科省は1箇所も受け入れなかった。このことは、これ自体が異常であり、そこに、調査官の悪意があると見るのは当然のことではないか。
 そこで、飛鳥新社から出した『教科書抹殺』でつくる会が指摘した100箇所の反論についてどう思うかと聞いたところ、それについては、勝岡氏は「おおむね賛成である」と答えられたと、私は認識していた。

●問題がすれ違う経緯
 ここから、問題がすれ違う経緯について述べたい。前述のとおり、藤岡氏の参加を断り、後で報告することにしていることはこの話し合いの中でも明言しており、その実行として直後に「報告書」にまとめ、藤岡氏にメールで送った。そして、念のため、その「報告書」は勝岡氏及び髙橋氏、土屋氏にも直ちに送信した。「報告書」には『教科書抹殺』に関する部分は書いていなかったが、右に述べた説明に関しては、「勝岡氏は以上の私の修正、反論にほぼ納得したと言ってくれている」と記述している。これについて、勝岡氏からも髙橋氏からも特段の反論は一切なかった。
 その後、10月3日、つくる会理事の何人かがいる席で、私はつくる会顧問の立場で、この「報告書」に記載したことを元に、私の思うところの勝岡氏の考えについて伝えた。
 問題は10月9日に出したつくる会の、勝岡論文への「見解」の表明である。そこに私の報告を元にした記述があり、「[私が]勝岡論文の誤りを指摘したことについても、[勝岡氏は]『納得した』と答えているのである」と記述している。これに対して、勝岡氏は今回の『正論』の論文で、「『納得した』などとは筆者[勝岡氏]は答えていない」と述べておられる。
 ここのところの問題については、私は次のように整理している。
まず、私としては、勝岡氏にも送り何ら異論を受けず、上記の高橋氏にも土屋氏にも送った「報告書」であるから、「報告書」のとおり報告して間違いないと判断したのである。
 私が、勝岡氏がどのように答えたかをつくる会に報告したのは、勝岡氏に見せた「報告書」に基づいて、顧問たる私の責任として行ったものであるから、つくる会としては手落ちはない。
しかし、『教科書抹殺』に対する勝岡氏の評価については、私の受け止め方を右の「報告書」で言及していないので、確認が取れておらず、勝岡氏が私の受け止め方とは異なる評価をしていたというなら、勝岡氏の言い分が正しいのかも知れない。しかし、私が右に書いたような受け取り方をしたことも事実であり、そのことも否定しがたい。
 つくる会の「見解」には9月20日の話し合いのことが書いてあるので、その案文を読み、意見を求められていた私としては、勝岡氏に念のため『教科書抹殺』の評価について確認をすべきであったかもしれず、それを私が怠ったことに問題がある。

●長い時間をかけて話し合った部分
 ところで、この9月20日には他の話も出た。というより他の話の方が長い時間をかけたと言ってよい。
 テーマは、教科書改善運動の在り方だ。教科書を良くしようと頑張っている運動団体同士では、対立があっても、話し合う度に同じ部分を同意し合って近づいていくようでなければならないとか、組織と組織が対立するようなことになってはならないとか。
 さらに、高橋氏は文科省の学習指導要領の劣化の問題に極めて積極的に取り組んでおられる。今回の検定の基盤となった学習指導要領では、歴史的分野にあって、愛国心を養うというところが副次的な扱いになってきているのだ。
 土屋元都議は、地方議員に向かって呼びかけ、採択制度を含む教科書制度の改革に取り組もうとされている。ITの発達した今日、何ゆえに検定合格教科書はPDF化して誰もが見られるようにしないのか。現在教科書展示会というのがあって、地域の住民は形だけ教科書を見ることが出来ることにはなっているが、10分や15分眺めるだけでは中に書いてあることは分からない。地域の住民の知らないところで採択教科書が決まっている。そして実際に使用されるようになって、住民として中身が分かったときには四年間凍結で、どんなに問題ある教科書でも替えることはできなくなっている。教科書採択制度はこの際、必ずや改善する必要がある。そんなことを土屋氏と話し合った。